わがまち・ウリトンネ(19)/広島・基町(2) 文正男、南炳鎮
必死に住む場所求める/バラック土日に建て月に入居
後に夫婦となる文正男さん(72)と南炳鎮さん(66)は、偶然にも同じ年の同じ月に日本へ来ている。1945年2月のことだ。文さんは徴用、南さんは勉強するためだった。
文さんは福岡県博多に着いた日を今でもはっきり覚えている。2月22日に到着し、そのまま田川郡糸田町の三菱方城炭坑金田分坑に送られる。そこには同胞が250人いた。
「10畳の部屋に10人が押し込められました」(文さん)。つまり、1人1畳しか与えられなかったわけだ。文さんは、45年8月15日の祖国解放を炭坑で迎えた。
一方、叔母夫婦を頼って日本に来た南さんは解放当時、広島県山県郡千代田町にいたが、47年に広島市西区にある三篠(みささ)町にやってくる。闇でアメ売りをしていた叔母を手伝った。
2人が知り合ったのはそんな頃だ。文さんは西区・観音町で夜間学校の先生をしていた。互いの友人同士が結婚したことで、2人の間にも見合い話が持ち上がる。そして、51年1月に結婚し、その年の12月には長男も生まれた。
当初は西区の大芝に住んでいた。ここも同胞の多く住むトンネだったが、区画整理で立ち退きを要求され、中区・基町へ。56年頃と記憶している。そこにバラックを建てて住むようになった。
「土、日にバラックを建てて月曜日に入るんです。こうすれば市当局が来ても居住権を主張できるでしょ。人が住んでいればつぶすわけにはいきませんもん」
南さんの話は今では笑い話ですまされるが、当時は住む場所を求めて必死だった。
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メモ 広島市編さんの「広島新史 市民生活編」によると、広島城跡や旧西練兵場のあった基町地区は、都市計画によって中央公園になる予定だったが、住宅難解消のため市営住宅を建設。そこへ他の地区の区画整理で立ち退きになった人々がバラックを建築した。54年には市営住宅1700戸に対し、バラック建築は2500戸に達した。
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基町ではどぶろくの麹(こうじ)屋を営んだ。当時、朝鮮人の商売と言えばどぶろくの密造だった。もちろん摘発される人も少なくなかった。「私たちの知り合いにもいました。品物全部持っていかれて、罰金とられて。そんなことがあって商売をやめてしまう人もいました」(南さん)
(文聖姫記者)