20数年ぶりの民族学校――もっと理念を大切に/金静伊
一昨年、娘の就学をひかえていろいろ考えた末、民族学校に行かせることにした。
私自身、小学校の六年間を民族学校に通ったが、主に進学のため中学から日本学校へ移った。親の考えで当然のように本名で入学したが、投げこまれてみると、本名は絶えず自分を緊張させる原因となったし、後には民族的コンプレックスを深めさえした。
同級生たちは、あからさまな偏見はもっていなかったが、朝鮮と日本の歴史について無知だった。
「名前は金でも日本人でしょう?」と言う子がいたし、私が日本語を話すのも、「日の丸」が掲げられた行事で「君が代」を歌うのもすべて当然だと考えられた。教師でさえ、大半がそうだったのではないか。
自分に対する評価が、朝鮮そのものへの評価につながってしまうかのような観念にがんじがらめになりながら、同時に学校という日本人社会に同一化しようとして、自身が朝鮮人であるという事実から逃れようと悶々とした日々が続いた。勉強にでも打ち込まなければ自分が崩れそうだった。本心を語れる友人はいなかったが、一度だけ思いきって打ち明けると、「名前さえ金でなければ、朝鮮人には見えない」と慰められて、ますます打ちのめされた。
自分自身の卑屈さ、朝鮮人であるという事実に正直に向かい合えたのは高校生になってからだ。
自身の経験が根底に
その後、多くの同胞に出会った。
いずれも日本名で日本学校に通い、小さい時からひとり差別と民族的コンプレックスの中で潰されそうになった経験をくぐり抜け、いま就職差別や外国人登録法反対など様々な活動をしている。
そんな友人たちの姿を見てきた私にとって、娘を日本学校に通わせるというのは一つの自然な選択だった。
民族的な葛藤は早晩、本人に訪れるにせよ、日本がこういう国であり、また在日朝鮮人の大半が日本学校に通うという現状から、娘だけ逃れることはできない。他 の外国籍の子どもたちも共に民族性を傷つけられずに、日本学校で過ごせるよう親としては力を傾けるべきではないかと思えた。
一方で、日本学校での経験を思い起こせば、1世たちが必死に守ってきた民族学校でのびのびと学び育つことは、とりわけ小さい時分にとってはかけがえのない経験であり、権利だとも思った。結局、民族学校を選んだ。が、身近な同胞は親をのぞいては支持してくれなかった。かわりに日本の友人たちが励ましてくれた。
9割の子供らにも目を向け
20数年ぶりに訪れた民族学校で、子供たちが実にのびのびと自然に朝鮮人として育つ様子を見て、本当にうれしかった。日本学校を経験した私には、何ものにもかえがたい光景だ。だが、ここで学ぶ子どもたちが朝鮮人のうちの一体どれほどだろうという思いは絶えない。
民族学校の一歩外では、9割にのぼる朝鮮の子らが日本学校に通い、相も変わらぬ経験をしなけらばならない。この現状に目を向けることは急務だ。生徒数が減っている民族学校の存亡にかかわるからだけではない。それができなければ何の民族教育だろう。
民族学校に対する同胞たちの意見は様々だ。民族学校を守り、同時に多くの南北・日本国籍の同胞に開かれたものにしていくためには、私たちが知恵とそして勇気をしぼらねばならないだろう。が、変わり得るという希望が今はもてそうである。
競争、成績偏重と管理教育の中で、子供たちが窒息しそうになっている日本学校の現状を見るとき、「1人はみんなのために、みんなは1人のために」という民族学校の理念は、人権の根本としてとても大きな可能性を持つに違いない。(埼玉県蕨市在住・会社員)