わがまち・ウリトンネ(20)/広島・基町(3) 文正男、南炳鎮


助け合って生きてきた同胞たち/2度の大火災にも負けず

 広島駅前には、昔懐かしい市場が健在だ。古い建物も目立つ。地元の人によると、駅周辺の開発が最も遅れているという。

 基町(中区)の再開発も遅れていた。1950年代初、地区には市営の仮設住宅に加え、不法に建てられたバラックが軒を連ねていた。他地域の区画整理で立ち退きになった人々が住み着いたのだ。

    ◇     ◇

 メモ 基町地区では53年にバラックの立ち退き問題が表面化する。54年12月、住民200人が反対同盟を結成。

 57年10月末から始まった市当局との話し合いを経て、58年6月に4階建て鉄筋アパート3棟が完成した。

    ◇     ◇

 「同胞らが多く住んでいた『原爆スラム』は再開発から除外され、バラックがそのまま残っていました」と文正男さん(72)は語る。

 市の中心を流れる太田川(本川)の左岸沿いには原爆で住宅を失った被爆者、低所得者が多数住んでおり、他地域のバラックが撤去された後にも放置されていた。

 63年1月、この場所で大火災が起きる。文さん、南炳鎮さん(66)一家は西区の大芝で八百屋を営んでいたが、帰国するつもりで家財を全部売り払った。しかし、事情ができ帰国を断念、裸一貫で再び基町に引っ越してきていた。

 「1月4日に住み始めたのに、31日には火事で丸焼け。でもこの時は市が2階建てのアパートを建ててくれました」(南さん)

 それから4年後の67年7月、2度目の大火災が起きる。860戸のうち149戸が被災した。この時はさすがにアパートは建ててもらえず、被災した150余人の同胞は東区牛田町の国有地に建てられた仮設住宅に移った。

 南さんは、「仮設ができるまで、白島(中区)の小学校でみんなでザコ寝しました」と笑う。

 仮設には150世帯が住んだが、3分の1が同胞世帯だった。

 「あの頃は何でもみんなで助け合いました。10畳の部屋をもらい、何かあれば、そこに集まってみんなで話し合いました」と文さんは当時を懐かしむ。

 火災のたびに同胞たちの大移動が行われたが、トンネの雰囲気が失われることはなかった。

    ◇     ◇

 メモ 68年、基町地区の再開発事業計画が打ち出される。2600戸の不法住宅を撤去し、基町地区内と地区外の西白島町の長寿園(公園)に8階〜20階建ての高層住宅を建設することを決めた。

 78年に全工事が完了した。

    ◇     ◇

 牛田の仮設にいた同胞たちは白島の長寿園アパートに移った。

 「71年から入居が始まり、74年までにみんなが引っ越してきました」(文さん)(文聖姫記者)