「小さなことから始めましょう」福岡朝中3年「希玉
全国中学生人権作文コンテスト福岡県大会最優秀賞
私は去る5月、修学旅行で大阪の由緒ある統国寺というお寺を訪ねました。そのお寺のご住職は在日朝鮮人2世で、それは素晴らしいお方でした。
ご住職は学校では習えない民族の伝統や風習など、沢山の事を教えてくれました。ご住職の数々のお話の中で、今でも私の耳に響いている言葉があります。
「小さな事を成せぬ者は、大きな事も成せぬ」
この言葉を聞かれた皆さんは、(何だ、当たり前じゃない)と、思われるでしょう。しかし私にとっては、色々な事を考える大切なきっかけとなったのです。
◇◇
私は今、朝鮮学校に通っています。
祖国と民族を知り、朝鮮人として立派に育つようにという両親の願いと、自分の国について学びたいという自分自身の意志によって通っています。
私は多くの大切な友達に囲まれ、毎日が楽しく充実しています。しかしある日のこと、近所に住む親しい日本の友達が私にこう言いました。
「何でわざわざ朝鮮学校に通っているの? 朝鮮学校は色々と大変なんやろ?日本の学校に来たら? 少しは楽になるよ」
私の事を思って言ってくれてるとは分かっていたのですが、何故か悲しい気持ちになりました。それは彼女が、在日朝鮮人の事をあまりにも知っていないと思ったからです。
私が朝鮮学校に行くことにべつだん理由や理屈なんてありません。私は朝鮮人だから。ただそれだけの事なのです。確かに今、「外国人学校」である朝鮮学校は日本では違う扱いを受けています。まだまだ色んなハードルを越えなくてはなりません。
しかし私は皆さんと同じ中学生です。皆さんと同様、学校へ通い勉強や部活もします。ただ違うのは民族が異なるので使う言葉が違うだけです。それなのに違う扱いをするという事は、私達を1人の人間として見ておらず、日本と朝鮮の間にあった苦々しい事実を知っていないのでは、と思うのです。何故私が今日本にいるのか、どうして祖父は日本に強制連行されなくてはならなかったかを。
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私は先日、学校から借りて読んだ「親子で学ぶ人権スクール」という本を思い出しました。そこには日本国内における人権の「懸案事項」が挙げられていました。その中から「朝鮮学校の不認定を含む差別事項」という言葉が私の目に大きく飛び込んで来ました。本の中で、ある弁護士の方がこう述べていました。
「人権の尊重とは、他人に目を向け、自分とは違う他人を受け入れ大切にすることだ」と。
皆さんと私は民族が違います。言葉や食生活、着る服だって違います。
彼女の言う通り日本学校へ行けば、確かに進学や就職に有利な点があるかも知れません。でも、自分が朝鮮人である事を否定してまでその道を選ぼうとは考えもしません。
私は険しい壁を乗り越えた時、必ず大きな目に見えない、かけがえのないものを得られるのではないかと思うのです。
悲しい事に、私達の事を本当に解ってくれている人は、そう多くないのが実情。
私は素直な気持ちで「違い」を解り合えるため、もっと多くの日本の方1人1人と向き合える、そんなおつきあいがしたいのです。マスコミを通じた想像だけの私達でなく、目の前にいる私達を知ってほしいのです。
1人1人と向き合って、話し合い解り合う度、つながり合えた人がまた増えたと、喜びを感じてゆくでしょう。
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21世紀は間違いなく私達の時代です。
近くにいる日本と朝鮮がお互いの違いを理解し合い、お互いの事をもっと良く知ることから国際化社会へと、いや世界平和へとつながっていくのではないでしょうか。
事の始まりは小さな事…。私がこう考えるようになったきっかけも、ささいな一言…。
世界平和―それは21世紀の主人公である、私達のささいな交流から始まるのだと思います。それはたった一言の挨拶からかも知れません。又、冗談を言い合ったり、一緒に悲しんだりすることなのかも知れません。
そう、小さな触れ合いがなくては、大きな国際交流なんて成し遂げられません。
今、私の先生や両親は私達を日本学校の人達と同じスタートライン、同じ舞台へ立たせようと一生懸命に頑張っています。私はそんな両親や先生の意志を受け継ぎ、必ず国際化社会への一歩を踏み出します。目の前にある目に見えない道を、自分の自らの手で切り拓いて行く事で…。
皆さん、身の回りのささいな、たあいのない触れ合いから始めましょう。小さなおつきあいから始めましょう。
それが、私達の未来へとつながるのですから。
(「さんの作品は県の代表作品として、全国大会に推薦された)