わがまち・ウリトンネ(24)/埼玉・深谷(3) 安承模
通学に往復4時間、それでも朝鮮学校へ/瓦工場運営、同胞の生活費に
どこのトンネも、民族教育と深いつながりがあるが、深谷(原郷)のトンネも例外ではない。
トンネの長老で、「村長」とも呼ばれた安承模さん(81)は、深谷地域における民族教育の歩みについて、こう話す。
「1945年の解放直後、今の分会事務所の裏に掘っ建て小屋を建てて、子供らに朝鮮語を教え始めた。61年、大宮市に設立された埼玉朝鮮初級学校(67年に中級部併設)に統合され、深谷の子供たちは電車で通学するようになった」
ここで問題になったのが遠距離通学。小さな子供たちの苦痛を少しでも和らげようと、同胞たちの間で通学バス購入の話が持ち上がった。そして1年後、「トンネの同胞が協力して、通学バスを購入した」(安さん)
それでも通学には往復四時間以上かかった。しかし、日本の社会で生きていくには、子供に朝鮮学校で民族教育を受けさせることが最も重要だ―誰もがそう認識し、子供たちを朝鮮学校へ送った。
通学バスは、今も深谷―大宮間を走っている。安さんの3男1女もバスを利用して、同校に通った。
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トンネに暮らす同胞のほとんどは、戦時中、土木業に従事した。しかし解放後は、ほとんどが養豚、どぶろくの密造で生計をまかなうようになった。
「同胞が密集して暮らす地域とあって、日本人は近寄らず、警察もめったにトンネには入ってこれなかった。しかし月に一度のどぶろくの密造摘発時には、この時ばかりと入ってきて、製造道具を没収していった。しかし摘発されても、翌日からはまたみんなでどぶろく造りを続けた」(安さん)
このように、助け合って暮らした深谷トンネの人々。地域の特産物の製造にも力を注ぎ、その儲けを同胞の生活費などにあてていたという。
深谷は昔から煉瓦の生産地として有名な場所だ。戦前には、明治時代に創業された「日本煉瓦」の工場があった。戦後も煉瓦や瓦を作る工場が多数建てられた。
同胞たちはそれに目を付け、養豚やどぶろく造りで稼いだお金でトンネに工場を建てた。40年代後半のことだ。日本人を雇い、瓦を製造した。
瓦の販売で稼いだ金は、「養豚業などの運転資金や生活費など同胞のために役立てた。大宮の朝鮮学校設立後に購入した通学バス、その運営費、学費などにも使った」(安さん)。
瓦工場は、60年代まで運営され、同胞の生活を経済的に支える大きな役割を果たしたのだ。
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47年と79年の2回、トンネで火事が発生した。数世帯が一緒に住んだ長屋とあって、1世帯に火がつけばまたたく間に火は広がった。その時も、同胞らは金を出し合い、家の修復を行った。(この項おわり=羅基哲記者)