わがまち・ウリトンネ(25)/広島・呉(1) 蒋炳寿、朴仁煥
軍港の町に多くの連行者/親戚、知人頼りに他県から
広島県呉市には、呉港に面して海上自衛隊の地方隊がある。広黄幡(おうばん)町には在日米軍の弾薬庫も。1950年、旧日本帝国海軍第11航空廠(しょう)の石油基地を米軍が接収し、改造した。ここを含め、広島県内の3つの弾薬庫を統括するのが市内にある秋月弾薬廠司令部だ。湾岸戦争の際には、ここの弾薬が呉港から中東に輸送された。
呉港は昔から軍港として知られていた。戦前には呉海軍工廠があり、ここには多くの朝鮮人が強制連行されてきていた。そのような場所柄からか、祖国解放(1945年8月15日)後、市内には多くの同胞が住むトンネがあちこちにあった。
43年に京都から疎開してきて以来、ここに住む朴仁煥さん(64)は言う。
「阿賀、広に点々と部落がありました。広吉松、広石内(いしうち)、広横路(よころ)、福浦、阿賀・延崎(のぶさき)などです。山の上の飯場跡に同胞が住みついたのです」
朴さんは今でも小高い山の上に住む。「当時はこのあたり一帯も同胞のトンネでした」と朴さん。だが、7割以上は親戚や同郷の知人を頼って他県からやってきた人だった。
「呉には3万人以上が徴用で連れてこられたと聞いています。その中には南方に連れていかれて、そのまま亡くなった人も少なくなかったそうです。解放後は大多数が国に帰りました」(朴さん)
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メモ 呉市広町の福浦には呉海軍工廠の寄宿舎があった。連行された朝鮮人はここから通ったようだ。朝鮮人強制連行真相調査団編「強制連行された朝鮮人の証言」(1990年)には、福浦第2寄宿舎にいた朝鮮人の名簿が資料として掲載されており、1045人の帰郷先が整理されている。同書によれば、解放後、福浦寮から帰国した朝鮮人は1364人。これには連行期間中に逃走した人数は含まれない。また、三菱重工業、広島ガス、中国配電をはじめとする企業でも朝鮮人強制連行者が働かされていた。当時を知る人は、鉄道、軍港、地下工場、道路などの建設にも朝鮮人が動員されたと語る。
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蒋炳寿さん(80)は兵庫県の相生にいたが、知人を頼って呉にやってきた。47、8年ころと記憶している。すぐに焼肉屋を始めた。「ここらでは一番古いのと違いますか。今では20軒あまりありますが、当初、焼肉屋をやっていたのは私だけでした」と蒋さんは言う。
「店といっても自宅の前に小さな小屋を建て、そこにテーブルと椅子を並べただけでした。当時はほとんどが常連さんでしたよ」(文聖姫記者)