近代朝鮮の開拓者/企業家(9)玄俊鎬(ヒョン・ジュノ)


 玄俊鎬(1889〜1950年)

 全羅道の有名な儒学者で、大地主の家に生れる。明治大学を卒業した後、帰国し、全羅道の民族企業の発展のため湖南銀行を設立し、頭取となる。1950年の朝鮮戦争の時、不幸な死をとげる。

 

民族企業発展に貢献/全羅道・湖南銀行を設立

 玄俊鎬は、湖南(全羅道)でも有名な地主であり、儒学者であり、かつ開化思想に理解のあった玄基奉の次男として、1854年に全羅南道霊岩に生まれた。

 霊岩は、南北朝鮮を通じて最も豊かな穀倉地帯であり、早くから近代企業が発達していた所である。

 玄基奉は、木浦倉庫金融株式会社や海東物産株式会社などに主要な株主として参与していたが、その企業家的活動は、息子の代になってさらに拡大されていく。

 玄俊鎬は、幼い頃に漢学を学んだ後、新学問を学ぶため有名な私立学校であるフィムンウィス(徽文義塾)に入学、卒業したのち、日本に留学して明治大学で法律学を学んだ。

 日本による植民地化の直前の頃である。この時、彼は、近代文明と近代企業に対する識見を身に付けながら、学友らと共に植民地支配下における民族企業家としての精神的姿勢を確実なものにしていった。

 当時、学友である金炳魯、尹定夏などは、その後も彼の生涯の協力者となるのである。

 玄俊鎬が大学卒業後に初めて行ったのは、湖南銀行を設立する仕事であった。

 湖南銀行は、1919年7月頃から創立準備が進められ、翌年8月に創設された民族系銀行である。

 実はその前に、光州農工銀行というものがあり、全羅道の人々はこれに期待を寄せたのであるが、これは日本系の朝鮮殖産銀行の創立と共に吸収され、結局は日本資本の搾取だけを受けることになった。

 このような実状に照らして、国内では国権回復運動の一環としての教育の普及、民族系企業と物産奨励運動の展開、民間の力で大学を建てる運動などが推進されたのであるが、湖南銀行の設立も、これらの運動と連結されていたのである。

 彼の友人、金炳魯はのちに弁護士となり、多くの愛国的有志の弁護を行ったし、尹定夏はソウルの「商工月報」の編集人として活躍した。2人は湖南銀行の設立にあたって、関係書類などをすべて作り上げた後も、銀行の法律および会計の顧問を担当した。

 彼が頭取となった銀行は光州に本店、木浦に支店を置いて、各種の民族系企業の発展に大きな役割をはたした。日本は、この銀行が民族運動の資金源にならぬかと常に監視し、39年、ついに「日皇(天皇)に対する不敬事件」なるものをでっちあげた。そして玄俊鎬を辞任に追い込み、日本系資本との合併を強要したのである。

 晩年、彼は、育英事業にも大きな役割をはたした。(金哲央、朝鮮大学校講師)