わがまち・ウリトンネ(28)/神戸・長田(1) 姜仁淑
ゴム工業勃興の地/同胞と密接に関係
神戸市長田区のほぼ中央を流れる新湊川沿い長田南小横に一つの石碑が立つ。「わが国ゴム工業勃興の地」と刻まれたこの碑の存在を知る人は決して多くはない。だが、長田がゴム産業の中心地であることは広く知られた事実だ。
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メモ 長田のゴム産業は1909年、世界屈指のタイヤ会社、英国のダンロップが神戸・脇浜にタイヤ工場を建設したことに始まる。そこで技術を学んだ職人たちが相次いで独立。折から斜陽の見えていたマッチ産業の工場を利用して、自転車のタイヤやベルト、ゴム履物などを生産した。ゴム履物は順調に伸び、30年には輸出量が3400万足と、世界第1位を記録した。
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長田のゴム産業と朝鮮人とのかかわりは深い。戦前から多くの朝鮮人労働者が出稼ぎに来ていた。45年8月15日の祖国解放後には、朝鮮人経営者の進出が目立つようになった。ケミカルシューズ業界には、いまでも多くの同胞が携っている。
しかし、その歴史を知る1世は残り少なくなってしまった。地元の人によると、ここ数年つぎつぎに亡くなったという。
済州道出身の姜仁淑さん(83)が長田にやってきたのは48年頃、舅姑がいたからだ。解放は大阪で迎えた。そのため、長田になぜ同胞が住むようになったのか、なぜゴム産業に多くが携わるようになったのか、などについてはまったく知らない。
「私が神戸に来た頃にはすでに同胞が数多く住んでいました。しかし、周りにはゴム関係者が1人もいませんでしたので、よくわからないんです」と、姜さんは申しわけなさそうに話す。
一説によると、30年にはすでに242人がゴム業界で働いていたという。77年に長田区役所が発行した「ながたの歴史」は、朝鮮人の流入が22年の末以降年々増え、「大正15(26)年には1411人だったのが、昭和5(30)年には5035人となった」と記している。
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メモ 30年、金輸出解禁によって、ゴム産業は国内価格引き下げの影響を受けた。シワ寄せは賃金引き下げという形で労働者に集中する。必然的にこの時期には、労働争議が頻発した。とくに、31年に起きた兵神ゴム(御蔵通)争議は、不当解雇に反発した朝鮮人職工らが復職と待遇改善を要求したたたかいだった。守衛が工場主の命令で白昼、朝鮮人の男女職工約30人に向けてピストルを乱射したことから「ピストル争議」とも呼ばれる。(文聖姫記者)