それぞれの四季/尹美恵-「歴史の中の女性たち」

百済王明信(くだらのこにきしのめいしん)


 聖武天皇は困っていた。東大寺大仏建立を発願し、幾度も鋳造に失敗してやっと完成のメドが立ったのだ。しかし仕上げに塗る金が足りない……。

 その時、「これをお使いください」と黄金900両を献上した人物がいた。陸奥国守百済王敬福である。

 聖武は大いに喜び、その年(749年)に「天平感宝」「天平勝宝」と2度も改元する感激ぶり。万葉歌人大伴家持も「みちのく黄金花咲く」と寿いだ。大手柄の敬福は従3位に躍進、河内国守となる。

 百済王氏は631年に渡来した百済義慈王の子善光を始祖とし、敬福はその曾孫で、もともとは難波百済郡を本拠地としていたが、以後、河内交野郡で繁栄した。この百済王を「こにきし」と呼ぶのは、「周書」百済伝に「王はンア吉支と呼ばれる」とある「ンア吉支」で、古朝鮮語で「コニ(ンア)」は大、「キシ(吉支)」は首長の意。

 「百済王等は朕が外戚なり」とは桓武天皇の言だが、百済王氏は桓武はじめ天皇家と外戚関係を結び、特に桓武の後宮には9人を入れている。その中でも特筆すべきは百済王明信であろう。明信は敬福の孫娘で、藤原継縄(つぐただ)の正室だったが、桓武に寵愛され、後宮の長官である尚侍(ないしのかみ)となった。

 妻を差し出した見返りは大きかった。継縄は栄進して右大臣となった。

 「君こそは忘れたるらめにぎたまの手弱女(たおやめ)我は常の白玉」――明信に寄せる桓武の熱い思いに満ちた歌が示すごとく、その寵愛は生涯衰えることはなかった。(ユン・ミヘ 歴史研究家)