知っていますか/朝鮮半島、なんでも初めて


騎馬民族の象徴、日本にも/広く知られた扶余の湾弓

 日本の「伝統行事」の1つとして、馬上から矢継ぎ早に的に弓を射る流鏑馬(やぶさめ)がよく紹介される。平安時代から鎌倉時代にかけて流行したと伝えられている。

 この弓矢も、古く縄文時代に朝鮮半島から伝わったものである。

 例えば、80年に福岡県宗像郡の今川遺跡で弥生前期初頭の青銅鏃(ぞく=矢じり)と、さらに日本最古のものと断定された鉄鏃が出土したが、調査・鑑定の結果、朝鮮半島のものと結論された(朝日新聞80年5月18日付)。

 朝鮮民族は騎馬民族ともいわれるが、それを裏付けるように古代朝鮮国家の1つで、中国東北地方にあった強国、扶余(プヨ)は名馬の産地として名高く、同時に貊弓(メックン)と呼ばれた湾弓(まがった弓)の産地としても名をとどろかせていた。中国人は、古代朝鮮の弓を「貊弓」と呼んだほどである。

 高句麗の建国伝説によると、乗馬の名手であった初代の王、高朱蒙はわずか7歳の時に弓矢を作り、百発百中の名射手でもあったという。

 北方の王、松譲と争った時、弓矢の技で勝敗を競い、見事倒して降伏させたとも伝わっている。

 1メートル前後の短い湾弓である貊弓は、高句麗の壁画にもよく見られる。弓柄は3〜5本の牛の肋骨や角を伸ばして作った。竹やクヌギも使われた。

 この弓は北方だけでなく、南の全羅南道の羅州、慶州の金冠塚などからも出土しており、その分布は広い。古代朝鮮民族独自の弓である証しであろう。

 日本では朝鮮半島のように短い弓ではなく、長弓が多く使われた。

 また高句麗壁画には、鳴鏑(かぶらや=木や竹の根などでカブラの形を作り、中を空洞にして矢の先につけるもの)で虎を射る場面などが描かれているものがあるが、日本の古墳から多く出土しており、さらには奈良の正倉院にも展示されている。騎馬民族の日本進出が語られるゆえんである。