わがまち・ウリトンネ(33)/神奈川・川崎(2) 金三浩
柱1本ごとに同胞の血と汗/多くの工場建設に従事
関東大震災(1923年)当時、神奈川県内に約3000人、川崎一帯に数百人の同胞が住んでいた。では、どのような経緯で川崎に住むようになったのだろう。
1905年に釜山―下関間の定期連絡船の運航が開始されて以来、多くの同胞が出稼ぎのために東京や川崎を目指した。
祖国解放(45年8月15日)直後、疎開先の山梨県から両親のいた川崎に引っ越してきた金三浩さん(67)によると、「川崎は1910年代から、臨海部の工場地帯、重化学工業都市として開発が進められ、日本鋼管をはじめとする多数の工場が進出してきた。同胞たちはこれら工場の建設のために集まってきた。アボジからは、川崎にある工場の柱1本1本に、同胞の血と汗がにじんでいる、と聞かされました」と語る。
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震災後、虐殺の恐怖から多くの同胞が帰国した。反面、復興作業に対する労働力の需要は高まる。川崎に出稼ぎに来る同胞数は、震災前に比べて急激に増えた。
「25年10月、日本鋼管や浅野セメントで働く労働者を運ぶため、鶴見総持寺あたりから海岸沿いの大師まで、海岸電気軌道が敷設された。多くの同胞がこの工事に従事した」(金さん)
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メモ 大震災が起きる2年前の21年、川崎町堀之内に、低賃金労働者の宿泊施設、川崎社会館が設立された。設立から28年までの7年間に、約3万人の同胞労働者が宿泊したという。また、「東京朝日新聞」神奈川版37年12月8日付によれば、川崎には2000余人の同胞が居住していた。臨港署管内における1400人について同署が調べたところでは、世帯数は約240世帯、職業は土工人夫約300人、古物商関係18人、職工3人で、他の1100余人は女・子供となっている。その一方、民族的差別、偏見などから就職先での解雇は日本人労働者に先立って行われ、川崎での29年歳末失業救済事業登録者数1000人のうち、同胞数は808人にのぼった。30年には2587人中、1478人だった。
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20年代後半になると、日本人失業者の数も増えたが、31年、「満州事変」の勃発に伴い、川崎は軍需景気にわく。
日本鋼管は39年、現在の池上町一帯を買収し、軍需工場の建設に着手した。これにも多くの同胞が携わっており、現在、池上町、桜本、浜町などに住む同胞たちは彼らの子孫である。
こうして39年末現在、川崎市には横浜市(8889人)につぐ、5343人の同胞が住むようになっていた。
(羅基哲記者)