わがまち・ウリトンネ(34)/神奈川・川崎(3) 金三浩


日本鋼管は「命の交換」/事故死、栄養不良死続出

 JR川崎駅から南に、東京湾に向かって車で15分ほど走ると、工場群が並びはじめ、トラック、重機の交通量が増えてくる。東京―横浜間の京浜工業地帯の要として機能している地域である。

 戦前、これらの工場建設、拡張工事には多くの同胞が携わった。戦時中には、朝鮮半島から強制連行されてきた同胞たちが、「技能工」として従事させられた。42年末現在、工業地帯の臨港地区だけでも約6500人の同胞がいた。

 川崎の同胞史に詳しい川崎在住の金三浩さん(67)は、日本鋼管に強制連行されてきた同胞について、こう語る。

 「当時、強制連行された同胞たちの間で歌われた歌があります。その中で、日本鋼管は『命の交換』と歌われていました。工場内の事故による死傷者が毎日のように出ていたし、栄養不良で死んだ人も多かったからです。当然、逃亡者も多かった。『日本鋼管株式会社40年史』によると、43年末現在、川崎の工場には1635人の強制連行者がいた。連行はその後もひっきりなしに行われ、日本の敗戦時には数万人にも達していたと言われています」

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 金さんの父は、故郷の慶尚北道で農業を営んでいたが、日本に土地を奪われたため、20年代後半に日本に渡ってきた。

 各地の飯場を転々とし、東京・北区の町工場に落ち着く。金さんは32年5月、そこで生まれた。

 43年に空襲が始まると、金さんは山梨県に縁故疎開した。父母は生活を維持しなければならないと、知り合いの同胞と共同で、川崎の臨海部である入江崎(現在の水江)に飯場を設けた。

 「父の飯場では、朝鮮半島から強制連行され、その後逃亡してきた同胞を毎日のようにかくまっていたそうです」

 日本鋼管のみならず、川崎の多くの軍需工場に強制連行されてきた同胞数は、相当数にのぼるという。

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 メモ :  日本冶金(やきん)、いすゞ自動車、日本鋳造(ちゅうぞう)、昭和電工、昭和電工アルミニウム、東      京機器工業の各社史には、戦争末期に入り、朝鮮半島から直接、川崎にある各企業の工場に多く      の同胞を連行してきたとの記述がある。

       それ以外にも、大阪鉄工所(現在の日立造船)、日本油化工業(現在の昭和石油に合併吸収)、      味の素などにも多くの同胞が従事していた。

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 「1910年代から始まる京浜工業地帯の発達史と、川崎の同胞史は切っても切り離せない関係にあります。同胞の血と汗を抜きにして川崎の歴史は語れません」(金さん)              (羅基哲記者)