「幸せの実現」のために過去を生かそう/朴才暎
民族を心性でみるアプローチ
40歳を過ぎて思いがけなく、個人カウンセリング・ルームを開業し、同時に、居住する行政からの委託を受けてカウンセラーとして仕事をすることになった。
カウンセリングという仕事に就こうとは夢にも思っていなかっただけに、今の仕事は、抗(あらが)い難い人生の必然に導かれた 道 だったような気もして、不思議な巡り合わせを感じている。
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世の中を理解する仕方について大岡玲氏は、次のように指摘する。
「神を中心とする構造性で解釈してみたり、階級闘争なる概念を持ち出してみたり、欲望とそれを巡る情報が世界を支配すると言ってみたり、果ては特定の民族がこの世のすべての機構を動かしているのだと断定してみたり、実にいろいろである」(毎日新聞 99年11月21日)
私自身はこの世の中を理解するのに、ごく早い時期からはっきりと 人の心性 で見ることに興味を持っていた。例えばそれは、「なぜ、朝鮮は日本の植民地になったのか」という問いに、地理的な列強に囲まれていたとか、近代化が遅れていたと言う考え方以外に、その時代に生きていた祖国・朝鮮の人々は、どの様な心性で日々を生き、行動する人々であったのか、と考えてゆくアプローチの仕方である。
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先日、NHKテレビで、戦前から大変人気があった朝鮮の歌姫「李美子」が わが民族の情緒は、喜びや幸せを歌うよりも、恨みや悲しみを歌うことが多かった というような意味のことを語っていたのが大変印象に残った。
ウリ民族の情緒がそのようなものであったとするならば、それはいつ頃から、どのようにして醸成されたものなのか?
それは、現代朝鮮民族の中にどのような形で残り、日本で暮らす在日コリアンの「物の考え方、行動様式」には、どのように影響しているのかと改めて考えずにはいられなかったからである。
「従軍慰安婦」にされて苦労を重ねてきたハルモニたちが「ナヌムの家」という映画の中で、自分たちの将来を朝鮮の息子たちに託して歌うのに気づいた人はいるだろうか?
まさに彼女たちを性奴隷にしたものは抑圧的な「男性主義」そのものなのだが、ハルモニたちは未だ女よりは男を、娘よりは息子を頼みにする「男性主義」の感覚から自由にはなれていない。
「儒教的伝統の美風」というが、私たちはそれによって幸せになってきたのだろうか。むしろ、実はより抑圧されて苦しんできたのでなかったか。
ハン(恨) ではなく心から「歓喜の歌」を歌いたいと願うのならば、私たちは、民族の伝統から何を受け継ぎ、何を捨て去るべきか?
カウンセリングの日々にも常々、過去は苦しみ続けるために振り返るものではなく、未来に2度と同じ轍(てつ)を踏んで苦しまぬように教えてくれる、「幸せの実現」のためにこそ、生かされなければならない、と思う。
何をどうする必要があり、そのためには何が役立つのか?
人に論されてそう思うのではなく、頭を明晰にして、1人1人が深く考え、行動するところに希望は見えて来る。
来るべき21世紀こそ文字通り、名も無き個人が自らの運命の「主人公」として 道 を切り開いて生きてゆける世紀の到来にしなければならないのだから。(奈良県在住・カウンセラー)