語り継ごう-20世紀の物語/鄭出水さん


泣きたい時には月を見上げて泣いた-それが朝鮮女性の意地

 60代の半ばを過ぎて「女優」になった女性たちがいる。山口県下関「シルバー歌舞団」のハルモニたちだ。分会に集うお茶飲み友達が、10数年前から忘年会や会合の余興に即興で歌ったり、踊ったりしたのが始まりだ。手作りの衣装や仮面で興じる「マダン劇」はさすが1世、本物である。

 メンバーの一人、鄭出水さん(76)は、女性同盟下関支部楢崎分会長を長年務めた。顧問となった今は、支部や孫たちが通う朝鮮学校の行事の度に仲間と一緒に駆けつける。日頃から鄭さんたちは朝鮮学校の財政の足しにと、古新聞やアルミ缶を集めたり、どぶろくやタンスル(甘酒)を作って提供してくれる強力な後援部隊だ。

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幼児期の「反日の会合」が原体験に

 鄭さんは1923年、慶尚北道永川市で4人兄弟の長女として生まれた。家は貧農で毎日の暮らしにも事欠くありさまだった。

 植民地支配下の困難な生活、解放後も異国の不自由な暮らしを生き抜いてきた鄭さんにとって、その原動力となったのは、幼児期に遭遇した一つの事件だった。

 3、4歳の頃のある日の明け方。人の気配で目が醒めた。親類のハラボジが外に出かけようとしていたので、何気なくその後をついて行った。しばらくして、辿り着いた所は村の書堂で、ちょうど日が昇ろうとする早朝であったが、そこにはすでに何人かの大人たちが集まっていた。そして大人たちは一斉に、「マンセー(万歳)、マンマンセー(万々歳)!」と両手を挙げて叫び始めた。鄭さんもそばでマネをしていると、帽子を被った日本人とその手先のような朝鮮人が書堂に踏み込んで来て、力ずくでハラボジら5人を捕らえ連行していった。

 その衝撃的な光景を目撃した時から「幼な心にも日本人は悪者だという強い印象を受けた」。この原体験が後の人生の指針となった。

 また「当時、女は人間ではなかった。学校にも行かせてもらえず、文字すら学べなかった」。封建社会の矛盾を憎む気持ちも成長するにつれ、膨らんでいった。

 その後、日本の植民地収奪は日増しに激しくなり、故郷での生活は困窮を極めた。兄は仕事を求め、下関市菊川楢崎で畑仕事を始めた。

 一家は鄭さんが13歳の時、兄を頼って渡日することになった。兄の元で家族は米もできない荒れ果てた畑を借り、知恵を絞って何とか作物を作った。村には約60戸の同胞が炭焼きや農家の下働き、そして焼酎などを作って暮らしていた。

夫を看病しながら7人の子供育てた

 日本に来て3年後、16歳の時、10歳年上の夫と結婚した。しばらくして「徴用」の通知が届き、夫は九州の炭鉱に送られた後、宇部市の海底炭鉱に移動させられた。

 1943年のこと、夫が休日で下関の自宅に帰って来たその日、炭鉱で水没事故が起きた。偶然、夫の命は助かったが、多数の坑夫が犠牲になり、犠牲者の中には多くの同胞もいた。

 夫が「徴用」にとられた間、朝鮮人蔑視が激しい村で子供を育てるため畑を作り、豚を飼った。週1回食糧配給があったが、朝鮮人には腐りかけた魚を配るなど差別は露骨だった。

 解放を迎え帰国への思いに胸を膨らませているその最中、夫が発病した。心臓弁膜症を患い、市内の病院に入院した夫の看病に毎日、25キロの道のりをバスで往復して通った。生活費と治療費が鄭さんの肩に重くのしかかったが、病床の夫と子供らの前では押し潰されるような不安感を微塵もみせることはなかった。

 帰国の機会は失ったが、朝鮮総聯が結成されると様々な権利闘争や大会に参加するため子供をおんぶし、バスで市内の県本部に通う日も続いた。今思うと、それが苦しい生活の中にともった光であった。

「どんなに辛く悲しくても、子供たちの前では涙を見せず、泣きたいときは月を見上げて泣いた」それが朝鮮の女の意地だと堅く信じていた。

 封建制のもとでは女性は人間扱いされなかった。古い思想はなくさねば、という思いから、7人の子全員に民族教育を受けさせた。夫の病死のため、末娘が望んでいた朝鮮大学校に送れなかったことが、今も悔やまれる、と言う。

 「人はどの国の人であろうとも、自分の国を大切にして生きれば、必ず道は開かれる。民族を決して忘れてはならない」というメッセージを若い世代に伝えたい、ときっぱりと語った。

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 残暑がまだ厳しい9月14日。下関朝鮮初中級学校の運動場を横切る鄭さんに出会った。幼稚班で催す「敬老の日」の行事に招待されたと言う。

 市街地・菊川の田園地帯に今は一人で暮らしながら畑でサツマイモを育て、毎年収穫の頃に幼稚園児を呼んで芋掘りを体験させてあげているそのお礼だ。

 白いレースの日傘をさし、今日はお呼ばれの日とあって、美しくメイクアップし、しゃんと背筋を伸ばして歩く姿は覇気にあふれていた。

 これまで、決して華やかな表舞台に立つことはなかったが、人生そして組織の舞台裏で「縁の下の力持ち」の役割を果たし続けた。

 「私は朝鮮女性だという誇りを心に刻んで、一心に生きてきた」――民族受難の世紀を逞しく生き抜いた、輝かしい人生がそこにあった。               (金静媛・強制連行山口調査団事務局長)