3・1人民蜂起から80年/受け継がれる民族自主精神
1日は、3・1人民蜂起(1919年)80周年に当たる。3・1蜂起は、日本の植民地支配に反対する朝鮮人民による、全民族的な反日独立闘争だった。勝利を収めるには至らなかったが、そのたたかいは日本の武断統治に深刻な打撃を与えた。この時に発揮された民族自主の精神は、今も受け継がれている。
背景
野蛮な武断統治/土地、資源など強奪
日本は1875年5月の雲揚号事件を口実に、朝鮮侵略の道に本格的に突入。翌1876年2月には「江華島条約」を朝鮮政府に強要し、朝鮮における日本人の治外法権を得た。
1904年の日露戦争の際には、朝鮮に大兵力を上陸させて武力で朝鮮に駐屯。「朝鮮の独立と領土保全を保障する」という名目のもと、日本が作戦上、必要な時には朝鮮に意のままに駐屯するという「韓日議定書」を調印させた。
1905年11月、後の統監府初代統監・伊藤博文らは憲兵隊と王宮に乗り込み、李完用ら朝鮮政府の重臣(乙巳5賊)を威嚇して「乙巳5条約」を強制的に結び、外交権を奪って事実上の植民地とした。翌年2月に統監府(後に朝鮮総督府)を設置、1907年7月には「丁未7条約」を交渉も経ずに結び、内政権までも奪った。
1910年8月の「韓日併合条約」締結で朝鮮を完全に植民地にした日本は、武断統治を実施。土地や資源の強奪、民族同化政策による教育、言葉、文化の抹殺、政治的自由の剥奪などを、憲兵と警察の強権をもって行い、抗するものは容赦なく逮捕、虐殺した。
経過
全国で200万人以上参加/植民地支配に打撃
日本の植民地武断統治への朝鮮人民の不満は蓄積し、自由と独立への思いは日増しに激化していった。
3月1日、ソウル・パゴダ公園で独立宣言が行われた。当初は3月3日の予定だったが、高宗の国葬日だったため、2日早めた。公園には数十万人が集結し、「われらはここに、わが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する」という独立宣言書を読み上げた後、市内をデモ行進した。
ソウルのほか、平壌や元山など4都市でも同時に起こったデモは、19日には全国13の道に波及。「日本人と日本軍は出て行け」「朝鮮独立万歳」などのシュプレヒコールを叫び、憲兵隊や警察、郡庁、面事務所、裁判所などを襲った。
5月末までの3ヵ月間に、全国232の府・郡のうち229の府・郡で、計1491回のデモや暴動が起こり、当時の全人口の約10%に当たる200万人以上が参加。独立を願う民族のエネルギーの大きさを示した。
満州やハワイなど、朝鮮人が住む至る所で反日デモが発生、中国東北地方では約12万人が参加した。
これに対し、日本は2万人以上の憲兵、警察、消防隊を総動員して「検挙班」を作り、武器も持たない参加者に銃を乱射、老若男女を問わず虐殺、または捕らえて拷問した。
5月末までに、4万6948人が検挙、7509人が虐殺され、負傷者は1万5961人に達した。弾圧がいかに苛酷だったかが分かる。
意義と教訓
解放運動を新次元に/民族に依拠してこそ勝利
3・1蜂起は、朝鮮が日本の植民地とされて以来最大の全人民的闘争だった。日本の残虐な武力弾圧と米国など外勢に依存する事大主義者らの誤った指導、革命的指導の欠如により、勝利には至らなかったが、それまでの9年にわたる日本の武断統治に深刻な打撃を与え、日本は武断統治を変えざるを得なくなった。
たたかいを通じて朝鮮人民の民族自主意識が高まり、大衆運動の発展につながったことも貴重な成果だった。
また、中国の5・4運動やインドの不服従運動など、諸民族の民族解放闘争にも影響を与えた。
3・1蜂起は、民族解放闘争を新たな次元に発展させる契機を作り出した。それまで独立運動を主導してきた民族主義者は姿を消し、労働者や農民が前面に出て運動を主導するきっかけをなした。朝鮮人民は金日成主席の指導のもとに1930年代初めから抗日武装闘争に決起、日本を破って民族の独立を勝ち取った。しかし、植民地支配に対する日本の謝罪、補償はまだされていない。
民族自主の精神に依拠してこそ、民族の独立を勝ち取ることができるという3・1蜂起の精神は、外勢を排して祖国の自主的平和統一を実現するたたかいへと受け継がれている。