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民族大団結で統一へ/90年代の歩み(1)


 民族の自主と大団結の旗の下に戦争の危険を防ぎ、祖国統一の新たな突破口を開くことで、2000年代を統一の希望に満ちた年代として飾ろう――。去る2月3日に平壌で開かれた共和国政府・政党・団体連合会議は、当局会談を含む南北間の幅広い対話を行うための対策を討議し、南北高位級政治会談の開催を南側に提案した。自主と民族大団結で統一を目指してきた共和国の90年代の歩みを、キーワードで振り返る。(根)

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協商会議招集提案(1990年1月1日)

障壁解体、自由往来など協議

 90年1月1日、金日成主席は新年の辞で、@軍事境界線南側地域にあるコンクリート障壁を解体A南北自由往来を実現して制限のない接触・活動を保障B政治、経済、文化などを全面開放――すべきだと指摘。そのための、南北の最高位級が参加する当局と各政党首脳の協商会議を招集するという新たな方針を提示した。

 この方針で重要なのが、軍事境界線の全区間240キロメートルにわたり構築されたコンクリート障壁の解体だ。民族分裂と南北対決の象徴である障壁をそのままにして統一について語っても、空論になる。

 前年の89年11月にベルリンの壁が崩壊、12月には米ソ首脳会談で冷戦終結が確認された。南北分断は冷戦の産物だが、この方針は朝鮮半島でも冷戦終結を目指そうとするものだった。南当局は当時、ベルリンの壁の崩壊を歓迎する意を表明、南のマスコミも「南北の『障壁』軍事境界線はいつ崩れるのだろうか」「休戦ラインもベルリンの壁のように」などと書いた。

 一方、89年3月に文益煥牧師が訪北、7月には第13回世界青年学生祭典参加のため、全国大学生代表者協議会代表の女子大生、林秀卿さんが訪北。全同胞の統一への熱望をさらに沸き立たせた。

 こうした情勢下で提示された協商会議の方針は、緊張と対決を終わらせて和解と団結を実現し、統一の決定的局面を開くものであり、「往来・開放」を主張する南当局の要求も幅広く反映した現実的な方針だった。

 共和国は1月9日の政府・政党代表連合会議で、板門店での予備接触を提案。だが「大統領」盧泰愚は自由往来・全面開放について「歓迎」しながらも、10日の年頭記者会見では障壁解体や協商会議には一切触れなかった。

 南は「コンクリート障壁は存在しない」と言い張り、障壁の有無を現地で確認する参観団を派遣するという祖国平和統一委員会書記局長の提案も拒否。しかし、79年12月に行われた完工式に当時の南の「大統領」が出席したことからも、障壁が南側にあるのは歴然たる事実だ。

 共和国ではその後、2回目の連合会議と政府・政党代表者協議会が相次いで開かれ、南側に計3通の書簡を送ったが、南当局は提案を否定。協商会議実現はならなかった。