時事・解説/共和国経済――第2の千里馬運動へ(上)
転換の年
経済全般を軌道に/全部門で生産正常化
労働新聞など3紙による元旦の共同社説は、今年を強盛大国建設のための「転換の年」にするとし、「第2の千里馬運動」を展開していくことを明らかにしながら、社会主義経済強国を建設していくと強調した。最初の千里馬運動は、1950年代後半、金日成主席が降仙製鋼所を訪れたのをきっかけに始まり、その後経済各部門で大高揚が起こった。当時の状況、課題などを踏まえながら、第2の千里馬運動について見た。(基)
始まりは降仙から
まず最初の千里馬運動が展開された当時と今の状況について比較して見る。
最初の千里馬運動は、57年からの5ヵ年計画初年度の人民経済計画を遂行するにあたって、主席が56年12月、降仙製鋼所(降仙=現千里馬製鋼連合企業所)を訪れ鋼材を増産するよう呼びかけたことが発端だ。
共和国では朝鮮戦争(50〜53年)後の戦後復旧3ヵ年計画(54〜56年)を通じて、人民経済各部門を戦争前の水準に復旧し、人民経済を発展させられる土台を築いた。それに基づいて主席は56年12月、朝鮮労働党中央委員会総会で、重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させるという、党の経済建設の基本路線に基づき5ヵ年計画初年度(57年度)の課題を示した。工業生産では56年度に比べて121%高めることを見越した。
当時は、米国と南の李承晩「政権」の北侵戦争挑発策動がいっそう露骨化し、国内では反党反革命分派分子の策動があるなど、反社会主義策動が日増しに高まっていた時期であった。そのため社会主義体制を守り経済建設を推進するために、重工業を優先的に発展させるという方針が打ち出されたのだ。
経済の土台を他国に頼らず自力で築き、将来、人民経済のあらゆる部門を現代的な技術で装備できる物資的・技術的条件を整えることが目的だ。例えば、農業や軽工業を発展させるための各種機械を生産したり、住宅や工場を建設するためにも重工業の優先的な発展が欠かせない。そのうえで必要不可欠な資材が鋼材である。だから主席は57年度の計画を遂行するにあたって、まず降仙を訪れたのだ。
降仙の労働者は、「鋼材を1万トンだけでもより多く生産できれば国がひと息つける」と述べた主席の期待に応え、既存の設備では年間6万トンしか生産できないところを最終的には自力更生の精神で12万トンも生産した。
降仙の模範が引き金となって各地でも成果が生まれた。金策製鉄所では19万トン能力の設備から27万トンもの銑鉄を生産した。そうした結果、57年の膨大な工業部門の計画は117%も超過遂行された。これは前年の工業生産に比べて144%になる。
千里馬運動が始まった57年は、戦後復旧期を経て経済全般を発展させるための土台を築いた、いわば「経済元年」だったと言える。
地方単位で土台構築
50年代の状況は前述のとおりだが、こんにちの状況はどうか。
共和国ではここ数年、建国以来かつてない困難な状況下で社会主義建設を推し進めなければならなかった。89〜91年にかけてソ連、東欧の社会主義体制が崩壊、共和国は社会主義市場を喪失した。また米国を中心に社会主義体制の抹殺を狙う策動が執ように展開された。さらには、95年以降3年続きの自然災害が追い討ちをかけ、2重3重の経済的負担を強いられた。
しかし共和国ではこうした困難な状況を乗り越えるために「苦難の行軍」を繰り広げてきたが、その過程で、「社会主義をしっかりと固守できる政治思想的基礎と軍事力を整えた」(昨年2月16日付労働新聞)。残るは経済問題だけだ。
そのため昨年の共同社説では、党の経済建設の基本路線を確固と堅持し、新たな大高揚を起こすことを強調するとともに、経済の活性化=工場の稼働と生産正常化を呼びかけた。その後共和国各地では、自力更生の精神を発揮した慈江道の模範を見習って、自力で中小型発電所を多数建設。地方ごとの電力問題を解決し、工場や企業所での生産を正常化させる土台を構築した。
今年の共同社説では、経済部門における基本課題として@経済すべての部門で生産を正常化させA経済全般を軌道にのせB人民生活を安定向上させる――ことを上げた。これは部分的に生産が正常化した昨年の成果を土台に、今年は経済すべての分野で生産を正常化させ、経済の円滑な循環を図ろうとすることを意味する。
経済全般を軌道に乗せることが今年の課題であり、「第2の千里馬運動」を展開する意味もそこにある。