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民族大団結で統一へ/90年代の歩み(13)


南北高位級会談開催合意(1994年6月28日)

対決を平和に、新たな歴史創造へ

 1994年6月22日、北側の姜成山総理は南側の李栄徳「総理」にファクスを送り、同28日に板門店で開かれる南北最高位級会談予備協議に、副総理級を団長とする代表を送ると伝えた。

 同日、開かれた副総理級予備協議では、最高位級会談を7月25〜27日に平壌で開くことで合意。北側の金容淳団長と南側の李洪九首席代表が合意書に署名した。わずか1日での歴史的合意に、「反目の歴史を民族大団結の歴史に、対決の歴史を平和の歴史に、分断の歴史を統一の歴史に変える、新たな民族史を創造するもの」(金団長)と、期待は高まった。

 合意の背景には、共和国の「核査察問題」をめぐって朝米間の緊張が激化する中、カーター元米大統領が南と北を訪問したことがある。

 カーター氏は6月15〜18日に、板門店経由で訪朝。金日成主席が16、17日と2度、会見した。主席はこの席で、金泳三が主席に会いたいとの意向を表明しているが、会えないかと尋ねるカーター氏に対し、核兵器を持った相手とは握手できないという自らの発言を取り消して来るなら会うと述べた。

 また主席は、最高位級会談で特別に論議するものはなく、南北合意書も非核化共同宣言も採択されているのだから、それらが実現するようにすれば良いのであって、会談がうまく行けば統一は遠くないと語った(94年6月30日、ベルギー共産党中央委員会委員長と行った談話)。

 最高位級同士が会って統一問題を虚心坦懐に話し合うことで、南北間の不信と対決を解消し、自主的、平和的に統一の新局面を切り開くというのは、北側の一貫した主張だ。主席は72年5月、訪北した南側代表団に最高位級会談開催を提案。88年10月には祖国平和統一委員会が、最高位級会談は最も重大な使命を担った最高の権威ある政治会談だと、原則的立場を明らかにした。93年5月に北側が提案した特使交換も、最高位級会談開催が目的だった。

 開催合意後、7月1〜2日の代表接触で南側代表団の構成と規模、会談形式、滞在日程などで合意。7〜8日に実務問題を協議する運びとなっていたが、8日に主席が急逝したため、中止となった。

 ところが、南当局は弔意はおろか、南からの弔電の発送や弔問団派遣など一切の追悼行為を「不法行為」と断定し、全軍に「非常警戒令」を発令するなど、露骨な反北対決へと一転。南北関係を一気に冷却化させた。その後、金泳三「政権」下で南北関係が好転することはなかった。