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共和国の経済戦略(上)重工業優先

生産正常化へ土台再構築/慈江道を全国のモデルに


 7月8日は金日成主席の逝去から満5年目にあたる。これを前に共和国では、1994年の主席逝去から5年間の金正日総書記の活動を振り返る作業が行われている。そこでは、3年間の喪の期間を設け錦繍山記念宮殿に主席を永生の姿で安置するなど、領袖永生事業を完成させた点、軍を柱に社会主義の完全勝利と祖国統一を実現するための先軍思想を確立した点などが、総書記の政治、思想的業績として指摘されている。そして、3番目が経済に関する業績だ。ここでは、これに沿って、近年の共和国の経済戦略について見る。(聖)

 

「江界精神」の一般化

 17日発朝鮮中央通信によると、金正日総書記は慈江道の経済各部門を現地で指導した。公式に報道されているだけでも、主席の逝去後、総書記の慈江道への訪問は昨年1月以来5回を数える。なぜこのように慈江道への指導を強化しているのか。それは、ここが重工業優先路線のモデル地域だからだ。

 総書記は昨年1月16〜21日、慈江道内の経済各部門を現地で指導した。この時、訪れたのは中小型発電所や工場、企業所、新たに建設された住宅、野菜温室などだ。総書記はとくに、道内の労働者が自力で作り上げた中小型発電所の発電機を見て満足の意を表した。その過程で、慈江道の人々が発揮した自力更生の精神を道都の名をとって、「江界精神」と称し全国に一般化させた。

 発電所=電力と見れば、これは機械や工場を稼働させるエネルギー問題解決に最も力を入れているととれる。言い換えれば、重工業発展のためにエネルギー問題を解決しようというのだ。

 その後、総書記の指導対象が咸鏡北道の城津製鋼連合企業所、慈江道煕川市内の工作機械総合工場、平安南道の清川江機械工場、勝利自動車総合工場、徳性機械工場など製鉄、機械部門に集中していることにも、重工業優先路線が反映されている。

 共和国では主席逝去後の5年間が「最も厳しい試練の時期」(労働新聞2月1日付)とされる。その要因としては、(1)ソ連・東欧社会主義崩壊による貿易市場の70%喪失(2)94年〜97年までの自然災害(3)「核疑惑」を口実にした体制抹殺の国際的圧力――などが挙げられる。そうした要因が複合的に重なって、深刻な食糧、エネルギー、外貨不足に陥った。

 エネルギーがなければ工場や機械が稼働せず、正常な生産を保障できない。こうしたことから、共和国ではエネルギー問題を解決し、生産を正常化させるための重工業の土台構築が再び提起されたと言える。

 

98から基本路線

 主席の逝去翌年の95年から発表されてきた労働新聞、青年前衛、朝鮮人民軍3紙の共同社説は、新年の辞に代わるものとして共和国のその年の方針を探る上で参考になる。

 その共同社説を元にこの5年間の経済方針を見ると、95〜97年は農業・軽工業・貿易第1主義を内容とする革命的経済戦略の貫徹をうたっていたが、98年には社会主義経済建設の基本路線の堅持を唱えている。今年の基本課題は経済全部門で生産を正常化し、経済全般を軌道に乗せ、人民生活を安定向上させることだ。

 経済建設の基本路線とは、重工業を優先的に発展させながら、同時に軽工業と農業を発展させるというもの。朝鮮戦争(1950〜53年)停戦直後の53年8月に開かれた朝鮮労働党中央委員会第6回総会で発表された。

 

第2の千里馬運動

 この路線は、56年12月の党中央委員会総会でも強調された。

 その直後の12月28日に主席は降仙製鋼所(現千里馬製鋼連合企業所)を訪れ、翌年度の経済計画を順調に遂行するためには計画外に1万トンの鋼材が必要だと強調。降仙の労働者らはこれに応え、12万トンの鋼材を生産した。金策製鉄所でも12万トン能力の設備から27万トンの銑鉄を生産した。当時のスローガンは「千里馬に乗った勢いで走ろう!」。千里馬運動はこうして始まったが、この運動は鋼鉄増産が強調されたことにも見られるように、重工業の土台構築が目的だったと言える。

 総書記は昨年1月に慈江道を訪れた際、主席が解放直後と戦後復旧建設の困難な時期に降仙を全国のモデルにしたように、強行軍を行うこんにちにおいては江界市をモデルにしようと思うと語った。

 今年の共同社説では「第2の千里馬大進軍」の推進が提起された。このことからも、共和国が今、最も優先課題として掲げているのが重工業の土台再構築であることが分かる。