近代朝鮮の開拓者/芸術家(1) 高義東(コウ ウィドン)


西洋画家の嚆矢/研究のため「書画協会」設立

 旧韓末、郡守をしたこともある両班の家で産まれ育った高羲東が、どのような過程を経て朝鮮で最初の西洋画家としての道を歩みはじめたのであろうか。

 それは、開化思想に目覚めた父親が、当時ソウルに開校された韓城法語(フランス語)学校に彼を入学させたことに始まる。彼はここで4年間フランス語をはじめ、近代的素養の初歩を学ぶのであるが、在学中、フランス語の教師レミオンが新しい画法で肖像画を描くのを見て、深く心を動かされた。

 その後、親のすすめで結婚もし、宮内府砿学局にも勤務したが、心に満足を得られず伝統画家の巨匠、心田、安中植、小琳、趙錫晋の門下生となり、伝統画法を学ぶ。しかしこれにも満足できなかった高は、ついに日本に留学し、新しく開化発展の道を歩み出した西洋画法を学ぼうと決心するのである。1909年、223歳の時である。

 フランス語は少しわかるが、日本語はまるでわからなかった彼を、東京美術学校(現在の東京芸大)は討議のすえ、西洋画科の予備科を作り、受け入れてくれたのだ。こうして前後5年間の修学を通じて、朝鮮最初の西洋画家が誕生する(1915年卒業。卒業作品は「姉妹」)。

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 当時、朝鮮における画家の社会的地位はまことに低いものであった。「せっかく留学しながら役にも立たぬ画の勉強とは何ごとか」と激しい非難が集中した。

 また、当時の支配的な画風は、中国の山水画を形式的に模倣した、極めて無気力なものであった。個人作家の創造精神に基づく「美術」などという概念すら存在しない時代であった。それでも1915年春、帰国すると珍しい存在として、社会面トップに「西洋画家の嚆矢(こうし)」の帰郷として紹介された。

 しかし、「コムンゴ(琴)をひく女人」の構想のもとに画を描こうとしても、モデルになる女性を探すのに大きな苦労がともなった。ましてヌードのモデルなど論外のことであった。

 こうした苦労を体験しながら、彼はまず、画家の社会的地位の向上のため、最初の美術団体である「書画協会」を結成して総務となり、東洋・西洋画家を網羅して、東西洋画の研究と後進の養成、大衆の啓蒙を図った。ここにはむしろ伝統画家が多く参加し、わが国における美術運動発展の契機となった。

 苦難の時代を反映し、彼の作品は東京芸大に残されている「自画像」のほか、本国に2点の自画像が残されているだけである。(金哲央、朝鮮大学校講師)

 

 高羲東(1886〜1965年)号は春谷。15歳で結婚。23歳の時、東京美術学校西洋画科予備科に入学。同校卒業後、「書画協会」の結成に参加した。東西洋画の研究と後進の養成に力を尽くし、解放後、朝鮮美術協会会長となる。