生き方、エッセー


民族楽器との出会い/康明姫

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 当年40歳を越えた私は、(故)康仲権を父に(故)韓桂児を母としてこの世に生を受け、今日まで平穏無事な日々を送ってきた。

 小学校4年生の時、サークル活動の中で祖国から初めて送られてきた民族楽器を手にした時から、朝鮮大学校、金剛山歌劇団、そして退団後、民族楽器の講師として活動する現在まで、30余年の歳月が流れた。

 そういう私に、拍車をかけた大きな出会いが2つほどある。

 まずは、11年前に初めて平壌音楽舞踊大学通信教育を受ける学生の引率者の1人として祖国を訪問し、その過程を肌で感じそのすばらしさを体験した事である。そ 
こには、著名な先生方のマンツーマンレッスンを受ける学生たちの姿があり、そして合間の時間帯に恩師からレッスンを受ける自分がいた。

 このすばらしい制度に関わった私は、学校卒業後もこの学生たちや楽器をこよなく愛する人たちの演奏活動の場を設けるために、一役買う決心をし、新たな演奏団体を設立することになった。

 1990年3月、15人ほどのメンバーで始めた、民族楽器重奏団ミナ(民楽)を設立し、今年で10周年目を迎える。

 メンバーの中には歌劇団OB、愛好家、そしてあの平壌通信教育の卒業生の彼らがいる。また、卒業生の大半がいま歌劇団の演奏家として活躍中である。

 彼らとの付き合いも11年目になるが、先生と生徒の頃とは違って、今や同じ道を行くもの同士、これからどのような道を切り開いて行くのか、また自分自身、何をなすべきなのかを互いに問いかけるのである。

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 もう1つの出会いは恩師、ハン・ナンヨン先生との出会いである。平壌音楽舞踊大学で教鞭をとっているハン先生に初めてお会いした1980年冬。以来、私の中にはいつも先生の励ましがあった。ハン先生との出会いは生涯忘れることのできない、いや忘れてはならない事なのだと思う。

 なぜなら先生との出会いが、その音色が、今日の自分を導いたからである。

 私が幾度かの貴重な出会いによって、今日までその道で頑張ってこれたのは、偶然ではなくその場におかれた自分自身の立場や境遇ではないかと思えてならない。

 在日2世として私ができる事、それは両親の思いをなし遂げること、そしてそれは、自分の中でつちかってきた、まださほど長くもない30年余りの楽器との出会い、人との出会い、そして経験を後世に引き継ぐ事ではないだろうか。

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 昨年3月、12月とアメリカ公演にたずさわり新たな道を切り開き、これからの生きざまが問われるいま、私はいつも良き協力者、同級生など、同胞たちの温かい胸のぬくもりを感じながらその期待に沿うよう一生懸命生きていくだろう。

 新たな道程を切り開いていくだろう皆と一緒に…。

 (かん・みょんひ、民族楽器重奏団ミナ団長)