南朝鮮軍・警の政治犯虐殺事件
3日間にわたって1800人も、 済州島4,3事件関係者も犠牲に 


電線で縛り、背後から銃撃/ 米軍将校、現場で黙認

 本紙12日付既報の朝鮮戦争(1950、6,25〜1953,7,27)初期に南朝鮮の軍と警察が、刑務所に収容されていた未決囚を含む政治犯を虐殺した事件は、事件報道を契機に、それまで口を閉ざしていた目撃者が名乗り出たのをはじめ、米国の責任を追及する声も上がっている。これまで明らかになった事件の概要を整理した。


米秘密文書の公開

 虐殺の事実は、米国の秘密文書によって明らかになった。済州島4,3事件(1948年、南朝鮮での単独選挙に反対してほとんどの島民が立ち上がった)を追跡してきた在米同胞の李ドヨン博士(54、ニューヨーク在住)が、米政府に文書の秘密解除を要請して文書が公開された。父親を4,3事件で虐殺された李博士は、事件の究明に奔走し、今回の文書もその努力の結果、公開された。

 文書(要旨)は、当時の駐南朝鮮米大使館陸軍武官のボブ・エドワード中佐が作成、合同参謀本部に報告した「南朝鮮の政治犯処刑」と「南朝鮮陸軍憲兵による処刑」の2件で、現場写真18枚と7枚がそれぞれ添付されていた。

 「政治犯処刑」文書によるとエドワード中佐は、戦争勃発直後の50年7月の最初の週、大田刑務所(忠清南道)で3日間にわたって政治犯1800人が集団処刑されたと報告している。また「処刑命令は疑う余地なく当時、南朝鮮政府の最上層部から出された」と記録している。

 「陸軍憲兵による処刑」文書には、被殺者は共産主義に協力した嫌疑で有罪判決を受け、服役していた人々で1951年4月、大邱(慶尚北道)近郊で処刑されたと記されている。


重い口開く目撃者

 この報道を契機に、それまで禍根を恐れて事件を語らなかった目撃者も、徐々に重い口を開き始めた。

 当時、大田建国青年同盟委員長をするなど左翼活動をしていた宋ジェソン氏(88、ソウル在住)は、50年7月14日、「パンツだけはいた収監者が5人ずつ、電線で縛られ運ばれて軍用車両に乗せて行かれ、軍人が穴のそばに彼らを座らせて機関銃を乱射した」と証言した。

 宋氏は、左翼活動に携わっていた警官にかくまってもらって難を逃れたが、人民軍が大田に入城した後、虐殺現場を訪ねたところ、果てが見えないほど多くの穴が死体で埋められ、「死の地」そのものだったという。少なくとも1600余人が、ここで虐殺された。

 この地域の住民の間で虐殺のことは、知らない人がいないほど、広く知られている。60〜70代の老人は、「戦争が始まった数日後、憲兵と見られる軍人が人々を運んできて長く掘った穴に沿って1列に並ばせ、背中から銃で処刑したという話をよく聞いた」と話すが、自分が目撃したと証言する人物は、いまだに現れていない。

 また処刑された政治犯の中には、済州島4,3事件関連者も多数含まれていると関係者はみている。当時、4,3事件で逮捕された被害者は、釜山と光州で裁判を受け、光州、大邱、大田の各刑務所に収監されたが、戦後、相当数が失そう処理されているという。


米への責任追及

 「朝鮮戦争の起源」などの著書で知られる米シカゴ大学のブルース・カミングス教授は、この虐殺事件に対して「老斤里事件(米軍が住民を避難させると言って銃撃・虐殺した事件)よりもはるかに規模が大きい」と述べ、「米軍は、この事件についても調査すべきだ」と強調している。

 「米軍と南朝鮮軍は、同じ国連軍の一員だったし、米軍高級将校を含む参観団が現場に居合わせ、南朝鮮軍の処刑を阻止しなかったという点で大きな責任がある」というのが、カミングス教授の指摘だ。「朝鮮戦争の起源」でも同教授は、虐殺の事実を記していた。

 ソウルを解放した人民軍は、大田でもソウルと同じように政治犯を釈放するから、それを阻止するために政治犯を処刑したというのが虐殺の理由と言われているが、前代未聞のこの犯罪は、米国の責任も含めて徹底して究明されなければならない。
(元英哲記者)