近代朝鮮の開拓者/芸術家(2) 金観鎬(キム グァンホ)
金観鎬(1890〜?) 平壌の富豪の家に生まれる。1909年、ソウルの中学を卒業、日本の明治学院に入学。16年に東京美術学校を卒業。書画協会会員となった後、25年に朔星会創立。その後、画筆を捨て、材木商となり以後不明。 |
「日暮れどき」が「文展」の特選に/東京美術学校をトップで卒業
高羲東の後に続いてわが国には、西洋絵画を学ぶ人が少しずつ出始めていった。
その中でも金観鎬は、西洋画の本格的な導入期であった1910年代に最も脚光をあびた画家であった。
高羲東より1年遅れた16年3月、東京美術学校の卒業式は、1つの「事件」によって人々の関心を集めた。それは、朝鮮人の金観鎬が首席として最優等賞を受け、その卒業作品「日暮れどき」が式場で特別に展示されたばかりか、日本の第10回「文展」に出品された応募作品1500余点の中の「特選」に輝いたのである(現在、東京芸大に所蔵)。
当時、東京駐在の国字新聞記者は、その報道とともに次のように述べている。
「朝鮮人を代表して朝鮮人の美術的天才を世界に誇示した君に感謝するものである」
すなわち、金観鎬の「特選」受賞を近代美術に長く記憶されるべき民族的「事件」と伝えたが、不思議なことに、その作品の写真は紙面に紹介されなかった。
◇ ◇
「日暮れどき」は、彼の故郷である平壌を流れる、大同江の綾羅島(ルンラド)近くの夕暮れの川辺に、今しも沐浴(もくよく)しようとする2人の女性が裸体となってたたずむ有様を後ろから描いたものだ。
河に向かい上体をやや前にかがめながら、膝を固くとじ、背中を見せる女人像は、あたかも古い社会を抜け脱しながらも新しい近代におずおずと進む当時の朝鮮の姿を象徴しているかの様である。
新聞は、作品の写真を不掲載したことについて次のように説明した。
「金氏の絵画の写真は東京から到着したが、女性の裸体画であるため写真は掲載できない―」
16年は、それでも金観鎬の生涯の中で最も幸運な年であった。朝鮮の絵画にとって、これまでまったく無縁であった油絵具で近代画法をマスターした彼は、16年の年末、風景画を主として平壌で個人展を開くことができた。
これは最初の西洋画の個人展であり、新鋭画家の帰郷報告というべきもので、いくつかの公的機関の買い上げもあった。
しかし、この年を頂点に、彼の創作意欲は急速に衰えていく。その後「牡丹台風景」、「湖水」などの作品が知られているが、この「湖水」を背景にしたヌード画も厳しい社会的制約を受けた。
20年代後半、彼は、朔星会美術研究所の活動から離れ、画筆を捨て、材木商になってしまう。この天才の運命は、1つの時代が異質の文化を受容することの難しさを身をもって示しているといえるであろうか。
(金哲央、朝鮮大学校講師)