あの日から5年
阪神・淡路大震災−同胞たちの近況 (5)
診療所はまるで野戦病院/懐中電灯使って診察
看護婦−金明仙さん
31歳 (上)
こんな経験は、もちろん生まれて初めてでした。電気は通らず、水もない。本当にないものばかりでした。
診察は、懐中電灯を使って行いました。朝でも室内は暗かったので、患者のケガの場所や表情を知るのに一苦労でした。消毒は、アルコールで済ませました。予備の医薬品はありましたが、それでも足りませんでした。
診療所は、まるで映画で見た野戦病院のように変わり果てていました。
それでも患者の気が少しでも和らげば、地域社会に貢献できると信じていました。
◇ ◇
神戸市長田区にある朝日診療所の看護婦、金明仙さんは、震災直後から被災者たちの診察活動にパワフルにあたった。震災があった1995年1月17日は、自宅が半壊したにもかかわらず診療所に駆け付け、被災者らの治療に当たった。
とくに20日から10日間は、西神戸朝鮮初中級学校(現・西神戸初級)に設けられた「出張診療所」に詰め、寝泊まりしながら所長とともに奮闘した。同校で避難生活をする同胞や周辺の日本人被災者らの治療にあたったのだ。
その後も連日、午前中は診療所で働き、午後には体温計や血圧計、聴診器などを持ち、避難所を巡回するという生活が続いた。
◇ ◇
震災後、診療所とは別の朝日病院(長田区)にも勤務していた時期があるんですが、私はまだましな方でした。同期の看護婦の中には、何時間もかけて家から歩いて出勤してくる人がいたからです。
病院は患者でパンク状態。看護婦の手が足りず、病院で寝泊まりしていた人もいました。夜勤もしばしば続きました。
被災地では、被災者の3割が65歳以上の高齢者でした。長引く避難所生活のうえ、慣れない集団生活と衛生問題、震災時のショックなどが重なり、精神的、肉体的にもまいっている人がとても多かった。カゼをこじらせた人も少なくありませんでした。
震災前日に診療所に来ていたのに、震災後、顔を見せなくなった患者さんがいました。1階に寝ていて建物の下敷になり、圧死したと聞きました。即死状態だったそうです。それでも痛みを感じなかったことだけが幸いだったとしか言いようがありません。
命は助かったものの、仮設住宅での老人の1人暮らしもとても辛かったと思います。長田区から西区、加古川方面に引っ越した人もいます。患者さんたちの中には「顔見知りは長田にいる」、「知人は朝日診療所に来る」と言い、わざわざこちらへ来る方もいます。
震災時、最も悔しかったことは、全力を尽くしたものの、満足の行く治療を施せなかったことです。 (羅基哲記者)