それぞれの四季/尹美恵
「歴史の中の女性たち」-百済永継 くだらのえいけい (上)


 1094年10月24日夜、折からの強風に煽られ、皇居堀川院が焼失するという事件があった。狼狽しながらも官人たちは天皇と中宮を避難させ、内侍所に安置されていた「皇位の象徴」である神器宝物を急ぎ搬出した。その「御物」の中に、大刀契があった。

 大刀契とは霊剣と魚符で、いわゆる「3種の神器」につぐ国家の宝器とされ、践祚(天皇の即位礼)の際に新天皇に授受された。この王の王たるあかし、王章である大刀契は、実は元来、百済王家に伝えられた宝器であった。それがいったいなぜ、日本の天皇家に伝えられ、しかも単なる宝物としてではなく、皇位継承に不可欠の王章の1つとして宮中に安置されていたのか。またそれは、いったいいつからなのか。

 百済は660年に滅亡した。その際、日本に亡命した百済王家の人々が日本の王家に伝えたのか。その時の百済救援軍を率いたのは、中大兄皇子(天智天皇)であったが、その曾孫が桓武天皇である。桓武自身、そのことを強く意識し、事実、桓武以降、天皇は天武系から天智系へと切り替えられた。この桓武が日本の王ばかりではなく、百済の王の流れを組む存在として自らを認識していたことが、大刀契の問題としてつながるのか。「百済王等は朕が外戚なり」という桓武の言葉は重い。

 百済王氏の本拠地、河内国交野で天帝を祭る郊天祭祀を行い、絶対君主たらんとした桓武であったが、しかし、桓武の野望をよそに、以後、藤原氏が摂政・関白として君臨、王権に対抗する存在となっていく。

 「藤原摂関家」とは、藤原4家のうち「北家」を指すが、この藤原北家に嫁し、北家興隆のカギを握ったのが百済永継であった。           (歴史研究家)