あの日から5年
阪神・淡路大震災−同胞たちの近況 (7)


マンション全壊、トンネに別れ/決して忘れられない光景
病院事務員-崔英子さん 24歳(上)

 ドーンと大きな音がした後、ものすごい揺れがあって、目に見えるありとあらゆる物が飛んできたんです。2階のマンションから外に出てみると、「ゴム工業勃興の地」として知られる長田のトンネは、もう火事で真っ赤でした。瓦礫で埋もれた道を、着の身着のまま、しかも裸足で走ったあの日のあの光景は、決して忘れられるものではありません。

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 崔英子さんが阪神・淡路大震災発生時に住んでいた神戸市長田区は、家屋の全壊・全焼戸数が最も多かった地域だ。

 震災直後、総聯兵庫県本部には、本部や中央の対策委メンバーら常時40数人がつめかけ、活発に救援活動を繰り広げた。

 朝青兵庫県本部に勤務していた崔さんは、同僚ら5人とともに食事の準備などの黒子役に徹していた。震災直後は西神戸朝鮮初中級学校(現・西神戸初級)での救援活動に参加し、本部に出たのは5日後の22日のことだった。

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 いくら本部に電話をかけても、1週間ほど電話が通じなかったんです。今では誰もが携帯電話を持っているので、容易に連絡を取り合えますが、当時はそういうわけにはいきませんでした。西神戸初中でたまたま1人の同僚に会い、出れる人から出てくれと言われ、22日から本部に出たのです。

 以来、毎朝6時に起床し、大人数の食事を仕込みました。ガスや水道が寸断され、食材も救援物資など限られたものばかりだったので、少しでも温かく、飽きないものをと、先輩らと献立を考え、携帯用コンロで準備しました。その合間をぬってはボンゴ車で近くの川に行き、トイレ用の水を運んできました。

 あの時、家族が身を寄せている親戚宅に帰れたのは3、4日に1度だけでした。

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 崔さんが住むマンションは、柱4本にき裂が入り全壊と判断され、今年、解体された。

 崔さん一家5人は震災後、親戚宅に身を寄せていたが、現在は西区の賃貸マンションに移った。震災前に住んでいた長田区のマンションは、1〜2階が賃貸で、3〜13階が分譲だった。崔さん一家は賃貸の2階に住んでいた。

 震災前、長田区には約9200人の同胞が住んでいたが、昨年9月現在には約7300人に減った。しかし、これはあくまでも統計上の数字で、移転届けが出されていないケースもあり、実数はもっと少ないと見られる。

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 生まれ育った長田、多くの友達が住んでいるトンネを離れて、身知らぬ土地で暮らすのはとても辛かった。家族の誰もが望まなかった。しかし仮設住宅にも、市営住宅にも当たらなかったので、どうすることもできませんでした。
(羅基哲記者)