ハバロフスク自由市場のオモニたち/崔蒼氷


思い出にできない「出会い」

生き別れになった姪の消息は

 10年前に極東ロシアのハバロフスクで偶然出会ったオモニたちは、今でもちょっと切ない感傷とかすかな無力感を伴って、私の心の奥深くでわだかまっている。それはよくある出会いにしてはあまりに予想外で、簡単に思い出として葬り去ることもできずに、時々私の脳裏をかすめる。

 最初の出会いは面白いことに、バザールの前にあるサッポロラーメン屋であった。食券を買うために列に並んでいると、私の後ろにいた東洋人らしきおばさんが声をかけてきた。流ちょうな日本語で話す、「日本人ですか?」という問いから会話は始まった。

 よくよく聞いてみるとおばさんは朝鮮人のオモニで、戦中日本領であったサハリンへ兄と共に渡り、その後、ハバロフスクへ来たという。その田末順というオモニに連れられて、バザールの花売場で露店を出しているオモニたちを紹介された。皆一様に戦中にサハリンに渡り、戦後日本にも祖国にも帰れずにハバロフスクに移って来た人たちだった。その多くは日本を経由してサハリンに渡り、一時、日本にも住んでいたと言う。

 そこで私は思いもかけず、その中の数人から人捜しを頼まれた。崔三善オモニは、戦中に生き別れになった姪(めい)の朴高子(もし生きていれば今62歳くらい)をぜひ見つけてほしい、と私の手を握ってきた。高子さんのアボジは朴七竜、オモニは鄭斗善、戦争が終わる少し前まで大阪の猪飼野(イカイノ)に住んでいたはず、というそれだけの手がかりしかない。また、朴三鳳さんは実の兄・朴又鳳さんを探している。

 1922年生まれの又鳳さんは、44年にアボジと一緒にサハリンから九州・高島に行ったきり消息がないという。アボジの名前は朴石金、本籍地は慶尚南道昌原郡昌原面東井里という。それ以外は何も分からない。日本にも祖国にも身内がいるのかどうかさえも知らないという。

「死ぬときは祖国で死にたい」

 実際このような例は、日本にも祖国にも枚挙にいとまがないに違いない。祖国の38度線で分断を余儀なくされた離散家族。日本、サハリン、シベリア、果ては中央アジア、ドイツ、アメリカと世界中で散り散りになったわが同胞家族。いずれも戦争、帝国主義というものがその直接の、あるいは遠い原因となっている。

 戦後55年を経て、ややもすれば私たちはその恐怖の体験を忘れてしまい、昔話のような錯覚に陥ってしまう(特に私のような戦争を体験しなかった世代は)。しかし戦争によって、生きている限り忘れることのできない心の痛手を負った人が厳然として今もいる。

 あるとき、サハリンから来た同胞が私に言ったことがある。

 「私は、『死ぬときは祖国で死にたい』と言って亡くなったアボジの無念さを思わずにはおれません。長い間私たちは遠いシベリアの地に置き去りにされ、祖国へも日本へも戻れませんでした。私たちがいったい何をしたというんでしょうか? 私たちは何処にも必要とされない人間なんですか?」

 その時、私は何の言葉も返せなかった。本当に私たちが必要としないものは、このような状況を生んだ戦争と帝国主義そのもののはずだ。2度と同じ悲劇を繰り返さないために私たちはこの戦争をけっして忘れてはなるまい。

 10年前のハバロフスクでオモニたちから聞いた日本の町名は今は変わっており、その辺りの様子も聞いた話とはまるっきり違っている。当時を知る人たちも今は数少ない。戦後55年の月日は、一人の人間を探すにはあまりにも長すぎる。日本で消息を絶った身内を探しに日本に行くこともできず、オモニたちはこの長い年月どれだけ肉親に会いたかったことだろうか。あの時のオモニたちに対して私は、今なお何の返事もできず複雑な思いを抱き続けたままでいる。(神奈川県在住・フォトグラファー)