あの日から5年
阪神・淡路大震災−同胞たちの近況 (8)


いざという時助け合える社会を/被災者励ました救援物資
病院事務員-崔英子さん 24歳(上)

 震災当日はまず、近くの日本の小学校に避難し、その後、西神戸朝鮮初中級学校(現・西神戸初級)に行きました。そこで、びっくりしたことがあるんです。

 日本学校にはまったくなかった水やおにぎり、そして救援物資がウリハッキョにあったのです。被災地以外の総聯組織の同胞たちが駆け付け、配っていました。ライフラインは寸断され、水もなければ、食べる物もない。そのため、これからどうやって生きていけばよいのかを考えていた矢先だけに、どれだけ助かったことか。改めて組織のありがたさ、同胞社会の大切さを実感しました。

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 震災後、交通網はマヒし、神戸市内は大混乱に陥った。

 記者も5日後の22日、総聯京都・西陣支部と民団京都・上京支部が合同で準備した救援物資を積んだワゴン車に乗って、西神戸初中に行く予定だった。しかし、予想をはるかに越える多くの物資が集まったので、座る余地は全くなく、出発の早朝5時に同乗を断念した。阪神間の東海道本線(JR神戸線)が震災によって寸断されていたため、阪急京都線西院駅から電車に乗り、宝塚線、JR宝塚線、神戸電鉄三田線などを乗り継ぎ現地入りした。時間は昼をゆうに回っていた。

 団体や理念の差を超え力を合わせて被災者に届けられた「サランの救援物資」は、総聯、民団、組織に属さない同胞ばかりか、日本人被災者をも大いに励ました。

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 全壊で家を無くした人、家族を失った人など…。しかし、「震災に負けたらあかん」、「自分に負けたらあかん」―誰もがそう思っていました。だからか、内心では大きな問題を抱えながらも、表面上はみな、明るく振る舞っていました。

 人間、気持ちの持ち方、物の考え方一つで、いくらでも困難を乗り越えられるっていうことをつくづく感じました。それでも私はまだましな方じゃないかな。

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 とは言え、崔英子さん自身の生活パターンも大きく変わった。住み慣れた長田区から西区に引越し、職場も変わった。慣れない生活に戸惑いもある。それでも、朝早くから夜遅くまで病院の事務員として働くかたわら、朝青明石支部の非専従文化宣伝部長として、同胞社会の発展のために引き続き奮闘している。

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 この5年間、仕事に朝青活動に必死で、忘れがちになっていたことがあります。命の貴さ、水の大切さ、それに民族に関係なく人と人とが助け合って生きていくことの重要さ…。いざという時、助け合って生きて行ける社会作りのため、これからも若い人たち同士の連携を深めていきたいと思います。                              (羅基哲記者)