平壌取材を終えて/
経済復興に向け,自信と活気に溢れる市民


「大きな転換」の始まり

 「道は険しい。でも大丈夫、私たちはやり遂げますよ」――明日を語る市民の表情は一様に明るかった。昨年10月から平壌に滞在し、市民の生活と移り変わる時代の波を現地で取材した。経済は依然として困難な状況が続いているが、新世紀へ向かう朝鮮の首都は自信と活気に満ちていた。

高速道路の建設現場で会った南浦の中学生たち。全校生徒が1日支援労働を行っていた

 

現状打開の道筋

 2000年を迎える学生少年たちの迎春の集いが行われた平壌体育館のメインホール。各地の大学生が製作した、大型の模型が参加者の注目を集めた。

 人工衛星「光明星2号」、ジャガイモの人形が運転するトラクター「大紅湍(テホンダン)1号」、リゾート地のロッジを思わせる「少年発電所」……。特別な説明がなくても、市民は誰もがその意味を理解した。

 電力不足は新しく建設した中小型発電所で補い、食糧問題はジャガイモ革命で解決する。そして、科学技術の発展に力を注ぐ。

 市民は、そのような朝鮮労働党の経済方針を、生活体験を通じて把握していた。平壌でも工場、企業所など職場単位で中小型発電所の建設に取り組み、家庭では国家から供給されるコメ以外に、ジャガイモを主食にするための加工や調理の方法が研究されていた。

 昨年は、「強盛大国建設において偉大な転換が起きた歴史的な年」だったと評価されたが、現実を誇張する表現ではないようだ。

 市民は自らの経験から、「転換」の言葉に具体的なイメージを思い描くことができた。例えば、中小型発電所で生産した電力で工場を稼働させた慈江道、ジャガイモ作りに励み成果を挙げた両江道の経験は、全国民に広く知れ渡っている。

 昨年から大小の工場で止まっていた設備が動き始め、経済正常化の基礎が築かれつつある。しかし、「転換」は生産拡大の数字で示される経済概念の意味だけではないと感じた。

 何よりも重要なのは、国民一人一人が現状打開のための方法論を実体験の中で見出したこと、そしてばく然とした期待感ではなく、現実的な課題として経済復興について語る勇気を得たことであった。

「台所事情は未だ苦しい」とオモニは語った。しかし食卓を囲む家族の表情は明るかった


「希望を捨てない」

 「すべてのものが不足している」。経済分野の取材では必ずこの言葉を耳にした。平壌―南浦高速道路建設のような大型プロジェクトの現場にも十分な機械設備がなく、建設者たちはハンマーで石を砕き、砂を背負って運んでいた。

 しかし建設者たちは、自分たちが切り開いた路盤の上にバスケットボールのリングボードやサッカーのゴールを設置して競技を行う楽観主義者だった。

 「今は、敵対国の封じ込め政策によって一時的な試練を余儀なくされているけど、決して希望を捨てることはないわ」

 家庭の苦しい台所事情について語ってくれたオモニも、取材中に笑みを絶やすことはなかった。展望があればこそ、「一時的な試練」という言葉に実感が伴う。

 昨年末、クリントン米大統領の実弟や村山元首相を団長とする代表団が平壌を訪れた。「改革」、「開放」の風に踊らされることなく、強固な政治的結束と軍事的な守りを背景に社会主義を貫き通した結果、米日が従来の対朝鮮強硬路線を転換せざるを得なかったと市民は認識している。

 ある鉄鋼労働者の言葉が思い出される。

 「われわれが自立的核エネルギーの開発を維持していれば、今頃、電気炉をフル回転させることができた。米国が公約通り2003年までに軽水炉を完成できず、それに対する見返りも示せない場合、朝鮮はわが道を進むだろう」

 21世紀、朝鮮が目指す経済復興の戦略には、資本主義国を含めた周辺国との関係改善の動きが外的要因として作用するだろう。しかし対米、対日、南北関係がどのように変化しても、国が国民の利益を無視したり原則を放棄して相手に屈服することはない、という市民の政治に対する信頼感が、現状克服の展望を成立させるもう一つの要因になっていた。

 市民の間では、最近の情勢変化を念頭に置きながら、「2〜3年後には統一する」との声も聞かれた。新世紀に、状況が良い方向に急展開するだろうとの見方が主流だった。

 90年代のたび重なる試練を乗り越え、「最初の転換」を実感した市民は、自分たちの生活を一変させる「より大きな転換」を予感していた。
(文・金志永記者、写真・李鉉民記者)