あの日から5年
阪神・淡路大震災−同胞たちの近況 (9)
率先してボランティアに/「負けたらあかん」と露店営業
お好み焼き屋−金載相さん
42歳 (上)
震災当日は、店舗兼自宅の3階で寝てました。3人の娘が泣いて泣いて、それはもう大変でした。
下に降りようとしても、階段は荷物でふさがれ、降りられません。3階の窓からふと下を見ると、外国人の女性が歩いていました。それで「ヘルプミー、ヘルプミー」と助けを求めたんです。するとその女性が日本人に頼んでハシゴを持ってきてくれました。窓から家族を降ろし、近くの小学校へ避難しました。
あとで気が付いたことなんですけど、自宅前には、家中のふとんが散らばっていました。飛び降りた時、少しでもショックを和らげようと、ほったんでしょうね。無我夢中だったんで覚えていないんです。足は血だらけでした。
(3階から飛び降りようとしたんですか?)。朝鮮大学校で4年間も過ごしたから慣れっこや。
(壁越えですね)。そうや。
◇ ◇
金載相さんは、震災が発生する半年前の1994年7月から、JR三ノ宮駅の近隣にある大安亭市場(約200店舗)の一角で、お好み焼き屋「かくべえ」を始めた。ライフラインが寸断されたことから、従来通りの営業は不可能に追い込まれた。
しかし、「負けたらあかん。市場が活気づけば、住民らの生活も活気づく」と、2月2日から店の前に鉄板と長机と椅子6脚を並べ、露店営業を始めた。
◇ ◇
灘区にあるガス会社に行きプロパンを購入して、営業を再開しました。水は東神戸朝鮮初中級学校(現・神戸初中)からポリタンクで運び、朝5時には兵庫区の中央市場に軽自動車で行って材料を仕入れました。
開店2日目までは、お好み焼きや焼きそばなど5品を無料で振る舞い、その後は2割、3割引きで提供しました。お客さんからは、それはもう喜ばれました。来店する顧客や同胞らの今後の生活に関する相談にも応じました。
避難所ではボランティア活動をやりました。400人近くが寝泊まりしていたので、誰かがまとめなかったら、物資の取り合いなどであちこちでけんかや。だから率先してやりました。1週間ほどすると、ボランティアやる人にはバドワイザーのレインコートを配ることになって、それ欲しさに「わしもやる」という人が続出しました。
震災時、困ったことの一つがトイレの問題ですわ。水がでなかったので、てんこ盛りに溜まるんや。臭くてたまらんかった。だけど誰も掃除なんかしやせん。だから私が学校の池から水を汲んできて流しました。枝ハシ使うてゴシゴシ磨く。トイレ掃除も慣れっこや。
避難所から家に帰ったらデッキがない、何がないなどと、あちこちで泥棒が発生し、自警団が結成されました。その時、関東大震災時のように、朝鮮人が何かやったという噂が飛び交うのではないかと心配しました。しかし幸い、そのようなことはありませんでした。
(羅基哲記者)