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朝鮮半島なんでも初めて

 ソウル 李朝の太祖によって王都に


天然の要害、18キロの城壁で囲む

 平壌と並んで朝鮮半島を代表するソウル。中部西海岸寄りの、京畿湾に注ぐ漢江下流の盆地に位置する。

 南北にそれぞれ南漢山・冠岳山、北漢山・北岳山がそびえ、中央部を漢江が東から西へと流れて天然の要害を形作ってきた。

 1394年、李朝の太祖・李成桂が王都に定めて以来約600年、政治・経済・文化・軍事・交通の中心地として栄えた。

 ソウルの歴史は、先史時代にまでさかのぼる。南東郊外の漢江の左岸一帯から、旧石器、新石器、青銅器時代の遺跡が発掘されている。風納洞土城は、三国時代の百済の都城ではないかと推定されている。

 当時、ソウルは慰礼城、漢山、漢城などと呼ばれていた。統一新羅時代、全国九州のうちの漢山州に編入され、8世紀、景徳王時代に漢州、高麗時代(首都は開京。現在の開城)には楊州と改められた。

 その後、高麗王朝の別宮が置かれて南宮、漢陽府に、そして李朝時代に漢城府と改称され、首都として大きな発展を遂げた。故宮や城門は当時の名残である。

 李朝時代に入ってからは、漢陽または漢城と呼ばれた。開京からの遷都は風水説によったという。

 漢城は、四方が城壁で囲まれた城郭都市で、前記のソウル盆地を囲む山の尾根に沿って築かれた城壁の総延長は、18・5キロにも達した。

 城内は約20キロの面積を有し、景福宮、昌徳宮、昌慶宮などの宮殿、歴代の李王をまつる宗廟、景福宮への大路沿いに官庁街が建設され、住民の消費生活をまかなう商店街も六つの分野に分けて設けられていた。

 城外一里までが漢城の管かつ下にあり、東西南北の4つの大門によって出入りは厳重な監視下に置かれた。人口は初期、10万人前後だったが、遷都後には20万人前後へと倍増したという。

 豊臣秀吉の侵略によって景福宮などが消失したが、李朝末期、大院君によって再建された。

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