第1次総聯同胞故郷訪問団
5泊6日の同行記
時空を越えた再会
南北統一、和解へのかすがい
「50余年間、我慢してきた甲斐があった」――。9月22日から南の故郷を訪問した第1回総聯同胞故郷訪問団の5泊6日を一言で言うと、こうなる。在日同胞が、飛行機でわずか2時間の道のりを、半世紀以上もかけた最大の理由は、祖国統一を妨げないためだった。それが、歴史的な南北共同宣言の採択によって、ついに実現したのだ。訪問団の5泊6日を振り返ってみた。
母と息子の約束
総聯足立支部の梁錫河顧問(73)、川崎高麗長寿会の盧垠会長(72)、女性同盟青森県本部の李漢今顧問の3人が、生母との再会を果たしたが、高齢のために、ほとんど人物を識別できない梁顧問の百四歳のオモニは、奇跡的に息子が帰ってきたことを知った。12年前に来日して、息子が祖国統一のために尽力していることを知った老母は、「あと10年生きる」と言い残して故郷で、息子が帰ってくる、統一が実現する日をひたすら待っていたのだ。 また盧会長のオモニは、95歳という歳にもかかわらず、しっかりした口調で息子のこと、家系のことを語り、「警察が来て、『お前の夫、息子はどこにいるのか』、と執ように調べようとしたけれども、一切、しゃべらなかった」と自慢げに話していた。 団長の朴在魯・朝鮮総聯中央副議長兼本社会長のオモニは、80年に亡くなったが、17歳のときの末息子の写真を肌身離さずに持ち歩き、柿の実がなっても「今年こそ在魯が帰ってくるから採るな」と言っていたという。 いずれの母親も息子の「不孝」を決して責めなかった。この母にしてこの息子ありきである。 75年から総聯同胞を対象にした「母国訪問団」事業が行われたが、息子たちがその一員として故郷を訪問したのなら、果たしてオモニたちは今回のように喜んだろうか。 ちなみに75年からはじまった「母国訪問団」では、「太極旗」を背景に「秋夕省墓母国訪問団」と書かれた名札を付けさせられた。
重い口開き始めた市民
身内に総聯幹部がいることで、様々な被害を被った訪問団家族が、その間の苦労を話し始めたのはもちろんだが、故郷の村人、一般市民までが北との関係、総聯との関係を語り始めた。 たまたま知り合った40代の主婦は、筆者が総聯同胞故郷訪問団の一員であることを知ると、「実は、自分の叔父が日本にいて、第1次帰国船で共和国に帰った」のだと打ち明けた。「もしこの事実が知れると、嫁に行けない」ので、初めて口にしたという。 文芸同中央の李殷直顧問には、全羅北道の故郷に縁故者が誰もいなかった。李顧問が総聯の幹部だということで迫害を受け、みんな村を出てしまったのだ。 それでも、せっかく来たのだから、と故郷を訪ねたのだが、なにしろ58年前のこと、地名も変わっており、両親の墓を探すのに一苦労した。警察に問い合わせてもらちが明かず、諦めかけたその時、偶然、通りがかりの老人が李顧問のことを覚えていて、やっと、両親の墓を探し出すことができた。そして警察と村中が総出で草むしりして李顧問を迎えた。 独裁政権時代だったとは言え、李顧問の身内に対して行った仕打ちに対するしょく罪の意識があったのだと思う。 赤十字関係者によると今回、直接、訪問団の案内、警護に携わった人員は70〜80人だが、交通整理や宿舎周辺、地方での案内、警護など延べ数で2000人以上になる。しかも、訪問団が移動するときは、交通を遮断し、パトカー、白バイが先導した。交通量の多いソウルで、交通を遮断するのは、よほどのことでない限り行わない。 これはやはり、総聯同胞の故郷訪問団事業が、南北共同宣言の枠組みの中で行われているからこそで、極論すると、第1次総聯同胞故郷訪問団は、「金正日総書記のお客様」としてもてなされたのだと言える。(元英哲、文光善記者) |