文化財返還問題と「韓日条約」(下)

破壊・略奪を謝罪し返還すべき

王陵盗掘した伊藤博文、盗掘品で「朝鮮館」を設立した寺内正毅


植民地政策の合理化はかる目的で

 1905年11月17日に「乙巳保護条約(第2次韓日協約)」が調印されたが、8月29日の夜、初代「朝鮮総督」に就任した寺内正毅は、窓の外の月をみやりながら、「小早川、加藤、小西(注1)が世にあらば 今宵の月を如何に見るらん」と詠じたという(「豊臣秀吉」小和田哲男著)。

 寺内が、というより、これは、初代総監・伊藤博文も含めて当時のすべての政治家、軍部の人間に共通していたものと思われる。朝鮮の植民地化を、秀吉の夢の実現ととらえていた、伊藤や寺内はかつて秀吉が朝鮮の文化財を破壊・略奪したと同様に、朝鮮を武力で制圧し、「戦利品」として文化財を取り上げていったのだ。

 この頃、すでに各地には古墳や寺跡を盗掘して文化財を持ち去る日本人(いわゆる掘り屋という盗掘集団)がはびこっていた。とりわけ高麗磁器は人参と並んで贈答品にもてはやされていた。そうした遺跡の破壊と略奪を助長したのが、ほかならぬ伊藤であった。

 伊藤は開城一帯に密集していた高麗時代の王陵や貴族墓に副葬品として埋蔵されていた青磁器の盗掘を奨励し、自ら盗掘品を買いあさって皇室の献上品にした。また李王家の王室書庫である奎章閣からも古書をくすねていった。

 寺内も、景福宮(キョンボクン)の一建築物を解体して、これを自身の故郷の山口に移し、「朝鮮館」なる陳列館を建て、膨大な典籍と磁器その他の文化遺物を所蔵していたのだ。

 日本は、戦争が長期化する39年頃に、制度的な破壊令(公文書の記録上「儒林の粛正並反時局的古墳の撤去に関する件」という題目で扱われていた)を出し、その内容の核心的部分ともいえる「荒山大捷碑」(注2)を爆破してしまったのである。

 すなわち帝国日本の本音は、文化遺産を破壊・略奪することによって、朝鮮の文化伝統をわい曲・抹殺し、「先天的落後性」、歴史発展の「後進性」を強調した、いわゆる皇国史観を基礎とした植民地政策の合理化を意図的に図ろうとしたことにあった。

ほとんど無かった民間所有の「引き渡し」

 文化財の略奪が公然と行われたことは、寺内が「朝鮮館」を設立したという事実をあげただけで十分であろう。にもかかわらず、「韓日会談」の際、日本側は、「ほとんど大部分が正当な手段で取得したものであった」と主張した。そして文化財返還問題を、「国交」の際の祝い品を「引き渡し」、「寄贈」することで処理したのである。

 その結果、1432点が「引き渡された」(南側の要求は4479点)だけで、民間所有者からの「引き渡し」はほとんどなかった(朝鮮日報、95年6月30日付)。

 「韓日会談」の進行中、日本の博物館や図書館では、朝鮮人が朝鮮のものをみるのを警戒した。しまいこんだり、ないといって見せなかったり、目録をかくしたりしたところがあった。朝鮮人にとられるのを恐れるような素振りがあった。調印された「韓日協定」は、まさにこういう態度と共通していたのである。

 南の李泳禧氏(国際政治学者)は、文化財返還問題をいくばくかの金で最終的に処理したことを放置したまま、進行する「韓日文化交流」は互恵平等的なものになりうることはできないと、強調した(「分断を超えて」84年)。

 朝鮮との友好親善関係を未来に向けて切り開いていくためには、文化財破壊・略奪に対する謝罪と返還は避けて通れない。(金英哲記者)

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 (注1)小早川隆景、加藤清正、小西行長は、「壬辰・丁酉倭乱」(豊臣秀吉の2回の朝鮮侵略、1592〜98年)のとき、編成隊に加わった中心人物。

 (注2)1378年に李成桂(李朝時代の国王、1335〜1408年)が全羅北道南原郡荒山で倭冦(わこう、日本人などの海賊集団)を全滅させたと伝えられる戦いの戦勝記念碑(1577年建立)。

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