第1次総聯同胞故郷訪問団参加者の座談会
「総聯のお客様」 村中が歓迎
半世紀ぶり、涙と感動の里帰り
姜奉玉(76)
李漢今(70)
朴喜徳(74)
総聯西東京本部顧問
女性同盟青森県本部顧問
在日本朝鮮人商工連合会副会長
9月22〜27日、第1次総聯同胞故郷訪問団がソウルや各地の生まれ故郷を訪れ、家族・親戚らと感激的な再会を果たした。在日同胞のほとんどは慶尚南北道、済州道、全羅南北道など朝鮮半島南部の出身だが、解放後、北側の政権を支持し、総聯に結集した人たちは南の歴代独裁政権の反共、反北政策によってこれまで故郷を訪問することができなかった。しかし、歴史的な6・15南北共同宣言の精神に従い、7月末にソウルで開かれた第1回南北閣僚級会談で北側が総聯同胞の故郷訪問問題を提起し、南側と合意をみて、このたびの実現となった。70〜90代の1世同胞50人は今回、信念を曲げることなく故郷の土を踏むことができたのだ。3人の参加者と故郷への旅を振り返った。
(司会、整理=本社記者)
―50余年ぶりに故郷を訪れた感想について。 朴 私の故郷は慶尚北道・醴泉だ。58年ぶりだったが、面長(村長)をはじめ村の人々が総出で歓迎してくれた。なかには小さい頃の同級生らもいた。長い間会っていなかったが、誰が誰だかすぐに見分けられた。 「10年で山河も変わる」と言うが、58年ぶりの故郷は大きく変わっていた。道も舗装され、住宅も新しくなった。でも若い人がほとんどいなかった。昔、通った学校にも行ってみたが、当時1000人以上だった生徒数が50数人にまで減り、昨年、とうとう閉校したという。少し寂しさも感じた。 李 私は故郷の済州道で、今年92歳になるオモニに会ってきた。私があいさつをしても最初は誰だか分かってもらえなかったが、しばらくすると思い出してくれ、とても感激した。 翌日には夫の実家へ行った。そこには90歳を過ぎた夫の姉がいて、その娘は日本から朝鮮に帰国し、平壌で大学の教員をしている。その娘の写真を持参し、見せたがすぐには分からなかった。でもしばらく見ているうちに突然気づいた。 こうした姿を見るにつけ、肉親の情というものの深さを改めて感じた。 ―故郷では父母らの墓参りもしたのでは。 姜 私は日本から精神安定剤を持っていった。墓参りの時、気を失いそうで不安だったからだ。父の墓前ではどうにか持ちこたえたが、母の墓前ではやはり倒れてしまった。1943年、私が徴兵され日本に連行される時、オモニはとても正視できないと家から出てこなかった。その時の母親の気持ちを考えると、今でも胸がつぶれそうだ。 朴 私も父の墓前で慟哭した。父親が亡くなった時、1人息子の私が行けなかったために故郷では喪主不在のままで葬式をした。母親は日本から人が来るたび「うちの息子はいつ帰って来るんだ」と聞いていたという。 ―今回、ソウルへは空路でたった2時間の距離だった。50年以上も里帰りを思い止まったのは。 李 現地の記者にも「なんで今まで故郷に来なかった」と聞かれたが、「真の朝鮮女性、朝鮮の母として生きようとしただけだ」と答えた。 姜 私は親戚に3つのことを話してきた。 1つは、家族が離れ離れになった理由。私が徴兵で強制的に日本に連れてこられた経緯を話した。次は、私がなぜ長い間故郷に行けなかったか。解放後、帰ろうとしたが故郷は米軍の占領下だったし、南北連席会議の際に金九先生が金日成将軍のもとに行ったのを見て私も将軍に従おうと総聯の活動を始めたためだ。3つ目は、歴史的な南北共同宣言によってこうして再会できたのだから、今後、共同宣言履行のために力を合わせていこうということ。みんな理解してくれた。 朴 行かなかったからといって故郷のことを思っていないなんてとんでもない。行けなかったからこそ、人より故郷を愛し、大切に思ってきた。 日本にいる家族の写真と共に、朝鮮で授与された数々の勲章を付けて撮った私の記念写真を見せると、故郷の親戚たちは「故郷にいれば国会議員や長官になれただろう」と口々に言った。私は「国会議員だから偉いわけではない。祖国と民族のために生きて働いてこそ価値がある」と答えた。 ―南北共同宣言履行の一環として実現した今回の総聯同胞故郷訪問団。閣僚級会談で北側代表がこの問題を取り上げるよう、直接指示したのは金正日総書記だという。 朴 こんな日が来るとは夢にも思わなかった。総書記には本当に感謝している。われわれ訪問団は南でVIP待遇を受けたが、これも総書記が送った代表団だとみなされていたからだと思う。 姜 故郷の家族はもちろん、村の人たちも「総聯から来たお客さん」だと大歓迎してくれた。以前の南なら、私の家族は「アカ」だと迫害される対象になったはずだ。私の思想、信条を尊重する彼らの姿から、南北共同宣言の意味と重みを改めて感じた。 |