私の会った人

三國連太郎さん


 日本中が戦争の狂気に覆われていた頃、この人はその渦から1人抜け出して、放浪の旅に出た。「中学に入っても軍事教練ばかり。ゲートルを巻くのが嫌で外していくと配属将校に目茶苦茶殴られて。それが耐えられなかった」。中学3年の途中で家出した少年は東京に出て、その後、下田からの木造船で密航して中国へ。各地を転々としたあと朝鮮の釜山に。1937年、日中戦争が勃発して軍靴の響きは高まるばかりだった。

 それから5年。20歳になった青年のもとに、赤紙(招集令状)が届いた。母からは「おまえも親不孝をしたが、これでやっと天子様にご奉公できるようになった。名誉なことであるからお役にたってもらいたい」という手紙が来た。

 しかし、青年はとっさに「戦争で殺されるのは嫌だ」「戦争へ行きたくない」と思い、列車で西へ西へと逃亡した。当時、徴兵忌避は大罪。そのはっきりした意識よりも「生理的な嫌悪感」にそって行動した結果だった。途中で母親に手紙を書いた。

 しかし、母の通報で逃亡計画はあえなくとん挫。「あっけなく捕まり、たちまち連れ戻され、静岡の連隊に入れられた」。

 この青年こそ、若き日の俳優の三國連太郎さんその人である。今も母への思いは胸の奥底に沈殿する。「母の人間としての感性を狂わせたのは、明治以来の軍国主義の政治や教育だったと思う。1人では逆らいきれない国家の暴力によってねじ曲げられてしまったのです」。(粉)

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