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解放直後、朝聯以外の団体は?

建青や建同、後に民団に


旧親日派、反共主義者 単独選挙支持し分裂

 Q解放直後、朝聯のほかにも大衆団体はありましたか。

 A  当時、同胞大衆団体としてもっとも大衆を引き付けていた組織は朝聯でしたが、そこに加わらなかった人たちによって朝鮮建国促進青年同盟(建青)や新朝鮮建設同盟(建同)が組織されました。

 建青は、左派の影響力が強かった朝聯に反対する右派的な民族主義青年によって1945年11月に結成されます。解放直後目立って反朝聯的な活動をして、朝聯とはげしく対立した組織です。たとえばモスクワ三相会議決定の支持問題を論議した朝聯2全大会を妨害するため、建青行動隊が会場に潜入しピストルを乱射する事件を引き起こしています。

 次に建同は、朝聯から排除された旧親日派や反共的な民族主義者、無政府主義者たちが46年1月に結成しました。建同は朝聯に対抗できる団体を目指して、天皇暗殺を計画したとして逮捕され22年間の獄中生活のすえ釈放された朴烈を委員長に担ぎ出しましたが、同胞の実情にそぐわない政治目的ばかりうたっていたので同胞大衆の支持を得られませんでした。

 両団体の組織力を見ると、46年10月現在、建青は12地方本部と若干の地方支部を持つ一方、建同の方は5地方本部しかありませんでした。当時、全国的に下部組織を展開していた朝聯に比べ、組織的にとてもぜい弱でした。

 建同はこのような行詰りを打開するため、在日同胞居住の安定と右翼陣営の大同団結を謳い文句に、46年10月3日に建青をはじめとする20余団体を集め在日本朝鮮居留民団(民団)を結成します。

 しかし結成当初の民団は、反朝聯を意識する少数の活動家の集まりということもあって、朝聯のように同胞の帰国や教育問題にしっかり取り組みませんでした。また政治路線として48年南朝鮮での単独選挙、単独政府樹立を支持する立場をとったため、単独選挙反対派と対立し組織内部の分裂を引き起こす結果をまねきます。

 民団は南朝鮮に単独政府が樹立されると、「大韓民国の国是を遵守する」という文言を据えた綱領を採択し、団体名にあった「朝鮮」も「大韓民国」に変更しました。

 そして駐日「韓国」代表部が設置されると、その統制を受けるようになり、李承晩政府を擁護する立場をとるようになります。(金大遠・研究家)

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