近代朝鮮の開拓者/科学者(6

禹長春(ウ・チャンチュン)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 禹長春(1898〜1959年)1919年、東京帝大農学部農学実科を卒業。農林省農事試験場時代、博士論文「種の合成」を発表し朝鮮人最初の農学博士となり、世界的な評価を受ける。50年帰国、各種の種子改良、後進の育成に励む。

世界的論文「種の合成」/白菜など種子改良に貢献

 1895年、ソウル駐在日本公使がたくらんだ閔妃暗殺事件に関連して日本に亡命した旧韓国軍人の父と日本人の母との間に生まれる。少年時代、母国からの刺客に父を殺されて母と共に苦労をした禹長春であった。

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 禹は1911年、広島県の呉中学に入学。16年に卒業した彼は、温順で目立つことはなかったが、数学だけは抜群の能力を持っていた。同年、農村の中堅指導者を養成するための専門学校である東京帝大の農学部農学実科に入学する。

 19年に同校を卒業、農林省西ヶ原農事試験場に「雇」(やとい)として就職し、翌年には「技手」となる。注目されるのは、彼がこの試験場で熱心に働き大きな研究成果をあげた36年の当時、わずかしかいなかった農学博士を東大農学部から授与されたことである。

 彼ははじめ、試験場で朝顔(あさがお)の遺伝の研究を積み重ねてきた結果を博士論文にまとめた。しかしながら、明日提出するはずの原稿は事務所の火災で消失してしまった。彼は大きな失望をファイトにかえ、新たに菜種(なたね)研究室長として後輩3人と共に菜種の品種改良に取り組んだのである。

 水田の裏作として病気に弱い日本菜種と、油は多いが生長の遅い西洋菜種をかけ合わせ、早く収穫できる品種を作り出そうというのである。

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 4年間の研究を重ね、ほぼ目的とする菜種「農林1号」を作り上げ、それを論文にまとめたのが世界的に高い評価を受けた博士論文「種の合成」(35年)である。

 後で彼の弟子たちが知ることになるのだが、その独創的な理論を基に、スウェーデン、ニュージーランド、米国のルイジアナ稲研究所などでは、その土地に合う新しい野菜や稲の品種を開発し、国民に大きな利益を与えている。

 彼は37年、農林省をやめた後、タキイ種苗の長岡試験場長に迎えられる。ここではペチュニア(つくばあさがお)などの品種改良の研究をした。

 ところで、彼の生活に変化が起こったのは50年、優良な種子の生産技術のない南の農業関係者の切なる願いを受け入れて、単身帰還を果たしてからである。

 日帝時代、キムチの主材料である白菜と大根の種子、ジャガイモのビールスに犯されていない無菌種苗を日本から輸入していた南は日本との貿易が止まると年々種子の劣化に悩み、生産は低下するばかりであった。

 種子の改良と後進の育成によってそれを救い、人々に大きな利益を与えたのが禹長春博士であった。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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