近代朝鮮の開拓者/女性(1)
カン・ヂュリョン
カン・ヂュリョン(1901〜31年)平安北道江界で生まれる。14年西間島に移住。24年帰国。31年5月、平原ゴム工場スト代表として乙密台屋上に籠城敢行。6月9日「平壌赤色労組事件」で逮捕。ハンスト後に絶命。 |
ゴム工場労働闘争の主人公/乙密台屋上で「高空ろう城」
近代に入って、わが国の女性の自覚は急速に高まっていった。19世紀末の開化期には「女性にも近代的な教育を」と、女学校建設運動が展開された。また一方では、20世紀に入って急速に増加する外国資本の投資による都市の大小工場に働く女子労働者たちは、その過酷な労働の過程を通じて、現実の中から多くのものを学んでいったのである。 ◇ ◇ 1931年5月30日、各地の人々は、次のような大きな見出しの新聞報道を見て驚いた。「乙密台屋上にのぼりスト煽動(せんどう)の演説」(毎日申報)。 その主人公こそカン・ヂュリョンという平壌郊外の舟橋里にある平原ゴム工場の31歳の女性労働者だった。 女性労働者20人と共に待遇改善を求めて10余日間、工場を占拠して同盟ストを敢行し、日本の警察によって強制的に工場を追い出されるや、工場側と警察の不当を訴えるために牡丹峰にある乙密台の屋根に登り、集まって来た群衆に大演説をぶって人々に大きな刺激を与えた。 新聞も毎日のように「女流闘士カン・ヂュリョン女史」「平壌のヒロイン」の言動を大きく報道したのである。 ◇ ◇ それでは、この女性はどんな生い立ちの人物であろうか。彼女の存在が初めてクローズアップされたのは南のハンギョレ新聞社から出版された「発掘韓国現代史人物(3)」によってである。ストライキが進行中だった六月七日、彼女は平壌舟橋里のスト団本部で雑誌「東光」の記者のインタビューに応じ、その記事が同誌(31年7月号)に掲載された。「乙密台の滞空女、女性闘士カン・ヂュリョン」として紹介されたのだ。 それによると、彼女の故郷は平安北道江界、14歳まで平穏に暮らしていたが、父の事業失敗で没落、西間島に土地を求めて農業をし、20歳の時、崔チョンビンという15歳の男性と結婚。その1年後に夫が抗日武装団体の大韓独立団に入団する。彼女は夫と共に活動するが、半年後、夫のすすめで家に帰る。2年後に夫が急死。 雑誌の会見記は、「彼女のこれまでの生涯を聞いているうちに、今日彼女の意識と男以上の活発な性格は偶然ではないことを知りえた」と伝えている。 その後、父母と弟のため平壌に出て女性労働者となり、ストライキを指導することとなるのだ。この時期、朝鮮における労働争議は大きな高揚を迎えているが、彼女は会見2日後に「平壌赤色労組事件」をデッチあげられて逮捕され、壮絶な断食闘争を行うが「病気釈放」の2ヵ月後の8月13日に平壌西城里の家で死去した。(金哲央、朝鮮大学校講師) |