近代朝鮮の開拓者/女性(2

金ホランイと李召史(リ・ソサ)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 金ホランイ(生没年不明) 19世紀末から20世紀初めに平壌に住み、のち金剛山にこもり独立運動に参加した。

 李召史 1895年、東学農民軍が李朝封建政府および日本侵略軍とたたかった時22才。日本の拷問により死亡。

異名「金剛山の虎」の義兵/東学農民戦争に参加、指導

  わが国の近代女性史は、いまだに深い闇に閉ざされている。この闇を破る2条の閃光を紹介することにしよう。

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 その1つは、眼もと涼しく色白の女性である。質素な頭巾をかぶり、裏毛のチョッキに、厚手のチマ・チョゴリを着て、伝統的な片膝を立てた姿勢で静かに座っている女性こそ、金ホランイ(虎)と呼ばれ、村人から尊敬されながら、一方で恐れられたのである。それはなぜだろうか。

 彼女は、19世紀末から20世紀初めにかけて平壌で生活していたが、日本軍を盾に、あらゆる詐欺と暴力を用いて侵入してくる日本人と争うようになった。非理を押し通す日本人を深く怒り、金剛山にこもり、のちに独立運動に参加する。しかし、この先駆的な愛国女性は、固ろうな村人から「物憑きの金ホランイ」として恐れられたのである。だが一方で、合理的に考え断固として行動に移す彼女を尊敬し支持する人々もいて、従来の手法とはまったく異なる近代的な画風による一枚の美しい肖像画が残されたのである。彼女のその後の運命と、画家の名前もわかっていない(ハンオル美術館蔵)。

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 2番目は、李召史と呼ばれる東学農民戦争の女将軍である。1895年3月5日の国民新聞に「東学党中の紅一点。李召史遂に就縛」として次の記事がある。

 「東徒中に1美人あり、芳紀22、容色城を傾くの美色ありという。名を李召史という。久しく東徒の間に在りて奔走し、馬上に跨がり、長興府を焼きたるときの如きは、彼れ馬上にて指揮し居たりという。彼れ曽て夢に天神現はれ古錠を与へたりと、東徒みな尊んで神女となせり。然るに…捕はれ、今や同地の鉄窓中に在りという…」

 この寡婦の敬称である召史をつけて呼ばれる李氏夫人は、夫を亡くして自由になったのであろうか、1895年、清日戦争の発端となった反侵略、反封建闘争である甲午農民戦争に積極的に参加し、人びとの大きな支持を受けたのだ。

 その彼女がもう1度、記録に現れるのは、日本軍による拷問のために、「両腿の肉が切り下がって、一方は骨が露出し、もう一方は皮と肉がほとんど離れようとしていた」という姿。これを見て日本侵略軍の指揮官南小四郎も驚がくし目をそむけたという(「東学と甲午農民戦争」岩波書店、著者・趙景達氏の引用文「東学党征討略記」より)。これらの人びとの鮮血でもってたたかわれた抗日独立戦争の記録を私たちはもっと掘り起こさねばならない。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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