「花岡事件」訴訟・和解成立

画期的な一括解決

犠牲者全員の尊厳回復を/原告の訴え実る


 1944年から45年にかけて、秋田県大館市の花岡鉱山に強制連行された中国人労働者が、ほう起するなどして418人の死者が出た「花岡事件」をめぐり、生存者や遺族ら11人が当時の使用者企業の大手ゼネコン鹿島を相手に損害賠償を求めた訴訟の控訴審の和解が11月29日、東京高裁で成立した。鹿島側が5億円を提供し、基金を設立、被害者の介護や遺族の育英資金として運用していく。被害者全員の一括解決をはかったことや、裁判所が積極的に問題解決に寄与した点など、「画期的な内容」(原告側)が含まれている。

裁判所の積極仲介

 訴えていたのは、強制連行先の花岡鉱山花岡出張所で中国人労働者の大隊長だった耿諄さんらでつくる「花岡受難者聯誼会」の会員ら11人。

 和解案の主な内容は、@強制連行の事実と企業責任を認め謝罪した90年の共同発表の確認と法的責任の留保A鹿島は法的責任を認めたわけではないB鹿島は犠牲者の慰霊と日中友好のため、中国紅十字会に5億円の基金を委託するC原告側は花岡出張所に連行された986人全員の一切の解決とする――などの内容だ。

 耿さんらは、89年に鹿島側に対して謝罪を求め、その後、鹿島側と被害者らは90年7月に鹿島の企業責任を認める「共同発表」を出した。

 しかし、補償についての話し合いが難航したため、耿さんらは95年6月に提訴。1審・東京地裁は請求を棄却したため、控訴していた。そんななか、昨年9月に東京高裁は職権で和解を勧告。今年の4月には当事者双方に基金方式による和解案を提示し、和解成立の運びとなった。

法的責任は認めず

 原告側が今回の和解を「画期的」(新美隆弁護士)と評するのは、日本の司法が和解の労をとったこと、原告11人のみならず、強制連行された被害者986人とその遺族の全体および一括解決を図った点にある。

 昨年9月、東京高裁が職権で和解を勧告した後、補償の金額や性格付けをめぐって、原告と鹿島側の間ですれ違いが続いた。そんななかで裁判所が4月に提示した和解案は、鹿島が5億円を信託して基金を設立するという、新しい方式だった。

 「公平な第3者として調整の労を取り一気に解決を目指す必要があると考えた。…戦争がもたらした被害の回復に向け、従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想で、懸案の解決を図るべく努力を重ねた」。新村正人裁判長は、和解成立の場で「所感」を発表、和解の意義をこのように強調した。

 もちろん和解成立までの協議はたやすいものではなく、「第1歩を踏み出す者のみが味合わなければならない『生みの苦しみ』があった」(新美弁護士)。

 被害者全員の一括解決が実現されたことは、特記すべき点で、裁判に臨む原告側の一貫した立場が反映されたものだ。当初から原告側は、生き残った者のみならず、犠牲者やすでに亡くなったすべての被害者の尊厳回復を求め、法廷闘争を行ってきた。

 犠牲者の遺骨返還など、この問題に歴史的にも関わってきた政府系の中国紅 十字会(名誉会長・江沢民国家主席)が、基金の受け皿になったことも意義深い。

 しかし鹿島側は、基金への拠出は「補償や賠償の性格を含むものではない」と主張、その法的責任については最後まで否定した。日本の司法が企業の法的責任を認めた判決や和解の例はない。その点で今回の和解は、1歩前進だが、問題の根本的解決には至らなかった。

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