本社記者 平壌レポート
「次」を見据える希望の眼差し
激動の時代の中心に
人々の姿にみなぎる自信
「今年は朝鮮の年だ」。平壌の人々は誇りに満ちた言葉で語った。彼らは自分たちが激動の時代の中心にいることを実感していた。7月から約5ヵ月間、平壌特派員として現地で取材した。新局面を迎えた北南関係、朝ロ首脳会談、朝米共同コミュニケ発表と米国務長官訪朝…。平壌が世界の注目を集めた時期であった。 勝利の涙 「その瞬間、涙が込み上げてきました」 10月10日、平壌で行われた朝鮮労働党創建55周年記念式典。ある青年は、興奮した口調で式典に参加した感想を述べた。 「閲兵式と市民パレードに先立って人民軍総参謀長が演説したでしょう、『私は金正日同志の委任により、あの苦しい試練の道を勝利に向かって歩み続けたすべての党員、兵士、人民に熱烈な祝賀のメッセージを送ります』って。そう、私たちはやり遂げたのだ。長く苦しかった日々を思い起こし、涙が止めどなく流れました」 「10月の大祭典」を前後して平壌の街の雰囲気は大きく変わった。前代未聞の試練であった「苦難の行軍」の勝利が公式に宣言された。労働新聞10月3日付は、「今こそすべてを語る時」だとして長文の政論を掲載。工場が止まり、街の灯が消え、過酷な生活難のために「痛ましい犠牲」までも出さざるを得なかった6年間にわたる試練の日々を克明に描き出し、そして総括した。 「よくぞ書いた」 「私たちの気持ちを代弁してくれた」 記事の掲載から数日間は、そんな市民の声を耳にした。状況の変化を確信するからこそ、彼らは、すべてを「過去の出来事」として思い起こすことが出来た。 党創建55周年を祝う数日間の休日、市民たちは時代の風を胸一杯に吸い込んでいた。メインストリートや広場に設けられた特設屋台、各種レストランは大盛況。市民たちは生活向上への期待を抱きつつ、朝鮮が「苦難の行軍」を決断するに至った前提、「朝鮮式社会主義」の崩壊を狙った敵対国による封鎖が崩れ去った現実を熱く語り合っていた。 変化をはっきりと認識したのは6月の「あの日」だった。 「金正日総書記がじきじきに出迎えるなんて。金日成主席の逝去から六年、『苦難の行軍』の陣頭指揮をとってきた総書記が目の前に姿を見せた。その感動は大きかった」 北南赤十字の事業により、離ればなれに暮らしていた姉とソウルで再会を果たした平壌在住の老教授は、北南首脳会談の初日に見た光景が、市民たちに与えた「衝撃」について証言した。 6・15共同宣言の発表によって、北南関係は新たな局面を迎えた。平壌市民にとっても「共同宣言の誠実な履行」は、最大の関心事の1つだった。 彼らの展望はおおむね楽観的であった。障害は存在するが、遂に始まった和解と統一の動きが後戻りすることはないと信じていた。 「金正日総書記が英断を下した」。情勢問題について意見を交わす時、多くの人がそのせりふを口にした。主張の論拠がそこにあった。 目前に広がる光景は一時の変化ではない。決定的な転機が訪れた。20世紀最後の年、彼らは歴史に明白な一線を画していた。 食糧やエネルギーの不足は徐々に改善の方向に向かっているが、最も大きな変化は、自立的民族経済の潜在力を発揮し、世界の先端技術の導入を実現する客観的条件が整いつつあることだ。社会主義市場の消滅によって朝鮮経済は大きなダメージを受けたが、現在は冷戦終息直後とは違う新たな政治構図が朝鮮半島の周辺に形成されつつある。 ロシア大統領、米国務長官の訪朝など21世紀の国際政治の潮流をにらんだ各国の外交が平壌を舞台に繰り広げられた。それは、変化の主導権は大国ではなく、朝鮮が握っているのだという自負心を人々に与えた。 「背景のスローガンもすべて英語に直せばよかった。そうすれば、われわれがどのようにして勝利を勝ち取ったか、深く理解できただろう」 金正日総書記がオルブライト国務長官と共に観覧したマスゲームと芸術公演。会場のメーデースタジアムで会った市民は、そう語っていた。 西側メディアは、現在の変化を「北朝鮮がかたくなに閉ざしていた扉を開いた」と解説する。ここから連想されるのは、疲れ果て、国際社会の援助を求める人々の姿である。 しかし実像はまったく異なる。人々の心情を代弁したと言われた労働新聞の政論は、「血の涙の6年間を生き抜き世界的激戦を勝ち抜いたわれわれは、誰よりも強く、純潔で、偉大な人民になった」と書いた。 平壌で出会った人々は自信に満ちていた。そして希望の眼差しで、次の時代をしっかりと見据えていた。(金志永記者) |