近代朝鮮の開拓者/女性(5)
鄭鐘鳴(チョン・ヂョンミョン)
鄭鐘鳴(1896〜?)独立運動の父はロシアに去り、教会伝道師である母に育てられる。十七歳で結婚するが夫と死別。「朝鮮女性苦学生相助会」を組織。それを朝鮮女性同友会に改組し社会主義運動に参加。槿友会委員長。以後不明。 |
女性解放運動の旗手/相助会を結成、社会主義運動に
天を支える2つの柱の1つと言われる女性の歴史、それも社会主義を目指す運動に献身したわが国の女性についての記録は、決して多くはなく、一般女性史とともに、その解明が今後の大きな課題として残されている。 ◇ ◇ 鄭鐘鳴は、これまで紹介されることが少なくなかった槿友会の幹部であり、社会主義者として朝鮮女性の解放のため一生を捧げた女丈夫であった。 貧困と孤独の中で人生の最下層に生まれ育った彼女であった。父は独立運動に参加したが、弾圧が厳しく、1900年代の初期、新しい天地を求めてロシアを目指し、その後、消息不明となった。残された母は教会の伝道師として、苦しい生計の中で娘を女学校に入学させたが、間もなく学費が続かず中退を余儀なくされた。 13年、17歳となった鄭鐘鳴は縁あって大韓病院の通訳官である男性と結婚したが、因習に縛られた結婚生活も3年後の夫の死によって終止符がうたれた。 彼女は一時、母にならって教会の伝道師となるが、間もなく自らの経済的自立のためにセブランス病院の看護婦学校に入学し、助産婦の資格を得る。このような彼女の社会的な目覚めは、母の活動に刺激を受けたのかもしれない。なぜなら、母は19年の3・1独立運動に参加し、さらに日帝の厳しい弾圧の中、26年6・10万歳運動にも参加して投獄されたからである。 ◇ ◇ 鄭鐘鳴はそれ以後、「家庭の係累をさけ自由な独身として、不合理な現実とたたかうことに一身を捧げよう」と決心する。 まず彼女は貧しい家庭出身の「朝鮮女性苦学生相助会」を創設して運動を展開するとともに、23年7月の京城ゴム工場女性労働者のストライキには、熱烈な支持演説を行って人々を励ました。 この頃から彼女は申徹という社会主義者と同居し、コミンテルン(国際共産党)傘下の共産青年会に加入する。さらに「朝鮮女性苦学生相助会」を土台として、初期の社会主義女性団体である「朝鮮女性同友会」を34年5月に結成させた。 その以前の27年には、新幹会と連動して女性の団結と地位向上を目的とする槿友会に参加し、翌年執行委員長となり、29年の光州学生運動に協力したとして投獄される。 暗黒の日々が終わり、解放の年の12月、彼女は朝鮮婦女総同盟咸南代表者に選出されたというが、その後の記録はいまのところ何もない。(金哲央、朝鮮大学校講師=終わり) |