亡国・解放・分断そして統一へ
朝鮮半島の20世紀―――B
外勢による分断と戦争
自主独立に干渉しつづけた米国
南に「反共の砦」 1945年8月15日、朝鮮民族は解放の喜びに沸いた。亡国の半世紀に別れを告げ、今こそ民族の自主性を取り戻す時が来た と誰もが思った。しかし、朝鮮は外勢により分断され、朝鮮半島は激しい戦 火に包まれることになる。以来、20世紀を終えるこんにちまで民族分断は続く。 解放後、朝鮮は北緯38度線を境にして、北はソ連、南は米国に分割占領されることになった。両国とも一定期間の信託統治の後に独立させることで合意したものの、ソ連との対立を深めていた米国は、日本帝国主義の残滓を清算せずに植民地支配機構を温存、利用し、親日派を抱き込みながら、南に反共の砦として「親米政権」を作ろうと図った。 北側では、民衆の歓呼を受けて凱旋帰国した金日成主席を中心に、共産主義を志向し、朝鮮半島全土に民主的な新しい国を作るための動きが着々と進められていた。そして北はもちろん、南朝鮮各地にも人民委員会が結成され、民主改革が進められていった。 しかし、南側でのこうした動きは力ずくで封じ込められた。軍政を敷いた米国が、解放の喜びのなかに芽吹いた南の民主勢力を激しく弾圧したのだ。 そして48年に入ると、南だけの単独選挙強行を 急いだ。これに対する民 衆の反発は強く、済州道では道民の4分の1にあたる約8万人が虐殺されることになる4・3蜂起が起きた。 こうしたなか、事態を憂慮した南の政治家たちは、金日成主席の呼びかけに応えて大挙平壌を訪問。4月19日には、南北朝鮮諸政党、社会団体代表者連席会議が開かれ、南北統一総選挙を求める決議が採択される。だが、これを無視して米国は5月10日に単独選挙 を強行し、李承晩を「大 統領」に担ぎ出す。そして8月15日、「大韓民国」成立を一方的に宣言する。 しかし、統一総選挙による統一政府樹立への努力が断念されたわけではなかった。8月25日、真の自主、民主政権を目指した南北総選挙が実施された。南側では命がけの秘密選挙の形で行われたが、実に全有権者の77・52%が参加した。 そして9月9日、金日成主席を首班に、平壌を首都にした、朝鮮民主主義人民共和国が創建される。 それから約2年間、李承晩は機会あるごとに北進を唱え続け、38度線付近では南の軍隊による挑発行為が連日のように起きていた。そして50年6月25日、38度線を挟んでにらみ合っていた米軍と朝鮮人民軍の間でついに全面戦争が勃発した。 朝鮮人民軍は勃発後3日でソウルを解放し、快進撃を続けるが、米軍による9月15日の仁川上陸作戦により戦略的後退を余儀なくされる。10月19日には米軍が平壌を占領するが、25日には中国人民志願軍が参戦。12月5日には再び平壌を解放する。 さらに翌51年1月4日には朝鮮人民軍が再びソウルを解放するも3月14日には米軍がソウルを占領。両軍が進撃、撤退、進撃を繰り返すなか、同年7月10日、開城で停戦会談が始まった。その後は53年7月27日の停戦協 定調印まで、38度線付 近で一進一退の持久戦が続いた。 この戦争に200万人の兵力を投入した米国は、開戦18ヵ月で太平洋戦争の3倍の爆弾49・5万トンを落とし、ナパーム弾で村や森林を焼き尽くした。信川では凄惨な婦女子大量殺りく事件もあった。また細菌兵器や化学兵器も使用された。300万人以上が犠牲になり、まさに朝鮮半島は草木ひとつ残らない焦土と化した。米軍の戦死者も3万5000人にのぼる。 この戦争は、朝鮮の独立に干渉しようとした米国 に、自主独立を目指す朝鮮人民が真っ向から立ち向かっていった戦争だった。 停戦以来、北南の分断は固定化された。東西冷戦下で、朝鮮民族の運命は大国の利害に左右され続け、様々なたたかいや試みにもかかわらず、民族の真の自主性を回復できる日は来なかった。 しかし停戦から半世紀近くが過ぎた今年、その構図にやっと変化が訪れた。6・15北南共同宣言は、統一問題、つまり朝鮮民族の運命を決める問題を、朝鮮民族自身の手に取り戻した。つまり、民族の自主性を回復する道を開いたのだ。(韓東賢記者)
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