オモニふところ、アボジの背中

先生を一喝した母  全哲


「なぜプールに入れないのか」

 「『私のオモニ』という題で文章を書け」と言われてオモニのあれこれを思い、「私のオモニってどんな女性だったのかなー?」と今は亡きオモニ像をとらえてみようとしたが、うまく浮かばない。

 在日1世がそうであったように、私のオモニも、貧困と差別の嵐の中で、食堂の仕事をしながら男女6人の子供を育てた。

 解放後は、朝聯の支部の委員長をしていた父を助けながら苦労を共にした芯の強い女性であった。実はとても静かでおとなしく、いつも微笑をたたえている人だと思ってみたが、実はそれだけではないと思える2つのことが回想される。

 それは私が小学校(当時国民学校と呼んだ)3、4年生ぐらいの夏のある日、家に帰ってオモニに抱きつき大声で泣いたことがあった。

 その日学校ではプール開きがあり、私もうれしくてプールに入ろうとしたが、当時の日本の担任教師がなぜか「朝鮮の子はあとから」と私のプール入りを妨げた。

 泣きながら訴える私の話を聞いていたオモニはその場で私の手を引いて学校へ行き、その教員に向かって「なぜ私の子がプールに入ったらダメなのか!」と怒った。当の教員は「とても混んでいたから…」とか言ったが母の剣幕に恐れをなし、私はプールで泳ぐことができたのだった。いつだったか、松本市にあるウリハッキョに行った時、立派なプールがあって、そこで泳ぎながら私は少年の時の事を思い「われわれは勝った」と感慨に耽ったものだった。

 母のことでもう1つの強い思いがある。たしか1960年だったと思うが、当時の社会党委員長浅沼稲次郎氏が右翼の暴漢に刺された日のこと。私が帰宅すると近所の同胞女性らが集まってテレビを見ているのだった。「浅沼さんが殺(や)られた!」と誰かが言っていた。

 浅沼さんは、当時東京・深川にあった私の家の近くのアパートに住んでいたので、大きな騒ぎになったのだった。

 オモニは私を見るとすぐ「ハンイジャンは大丈夫か?!」と興奮した表情で聞くのだった。

 その時はオモニがなぜ浅沼氏と関係のない韓徳銖議長の名を出すのかといぶかったが、考えてみるとこのオモニの言葉は当時の在日同胞の心情を代弁している大切なことだったのだ。

 祖国を奪われ、苦しんだ当時の同胞たちは組織を、指導者を宝もの以上に考えていたのだ! と私はオモニを回想する時この「ハンイジャンは大丈夫か」の言葉を、オモニの優れた愛国心の表れと断言したい。(漫画家)

 全哲氏のオモニ=申敦姫さん。1900年、朝鮮咸鏡北道金策市(昔の城津)生まれ。72歳で死去。

お 知 ら せ

 今号から月曜日付けで「オモニのふところ、アボジの背中」を始めます。思い出に残るアボジやオモニの印象記をお寄せ下さい。20世紀の受難の時代に、1人1人の朝鮮人がいかに逞しく生きたのか、また、家庭を築き、子供たちに何を残そうとしたのかを、近親者の目から見てみようと思います。思い出に残る言葉、料理、暮らしの行事、雰囲気、何でも具体的に書いて寄稿して下さい。長さは800字。本紙「女性・家庭欄」に。TEL  03・3268・8583。