在日朝鮮学生文学作品コンクール

作品から見る子どもたちの「今」
にじみでるアイデンティティー/「自分が誰か」を自覚


楽しい学校、家族大好き、日本社会にも目

 先日、入選作110編が発表された本社主催の第22回在日朝鮮学生文学作品コンクールには、全国各地の朝鮮初中高級学校から1870編の作品が寄せられた。多彩なテーマを生き生きと綴ったその作品からは、朝鮮学校の子供たちの「今」が見えてくる。

授業、イベント、部活

 やはり一番多いテーマは、子供たちの生活の多くの時間を占める、学校での出来事を扱ったものだ。

 まず、多くの子が取り上げる題材になっていることから、朝鮮伝統の民族的な風習や遊びに親しむための様々な取り組みやイベント、教科や学年の枠を超えた自由研究発表などの課外授業が各学校で盛んで、それを子供たちが楽しんでいるのがよく分かる。

 また、授業でよく登場するのは社会、美術(図画工作)、理科、国語(朝鮮語)。社会では、祖父母のルーツを聞いてくる宿題がどの学校でも出されているようだ。そうしたことを通じて子供たちは自分が「誰」かを知り、歴史を知っていく。美術では、創作過程での自分自身との格闘や先達への尊敬、美しいものとの出会いによる感動が、理科では、動植物の観察がたびたびテーマになっている。国語では、とくに初級部で口語教育に力を入れる授業の楽しさが綴られており、教師たちの努力が伺える。

 クラブ活動に関する作品も多い。スポーツや芸術に打ち込む姿、そこでの迷いや失敗の悔しさ、成功したときの喜び、仲間との友情…。その中での成長ぶりが垣間見えて頼もしい。

毎日が「冒険」

 通学路を描いた作品も目につく。朝鮮学校の場合、初級学校から電車やバスで通う子がほとんどだ。そんな苦労をものともせず、毎日色々な発見をしながら楽しい「冒険」をしている子がいる。そして彼らは、自分たちが近くの日本学校ではなくなぜ遠くの朝鮮学校に通っているのか、ちゃんと分かっているのだ。

 その気持ちは、親元を離れて暮らす寄宿舎での生活を描いた作品により強く表れている。こうした作品からは、子供たちの生活を支える先生たちの細やかな心遣いも伝わってくる。

 人数は少ないが仲のよいクラス、親や友達のような先生、スクールバスの運転手から用務員の仕事まで何でもこなす校長先生…。どれも、日本の学校と比較するとマイナスにも取られかねない要素だが、朝鮮学校ならではの、ほのぼのとした雰囲気が子供の視点で描かれている。彼らはそんな学校が大好きだ。

 近年、活発な対外公開授業や日本市民、日本学校との交流をテーマにしたものも多い。また、習い事や塾などで出会った日本の友達を通じて知った、日本社会の断面を鋭く突いた作品も印象に残る。日本の学校から転校してきた子が、習い立ての朝鮮語で自分自身の転校体験、思いを綴った作品も数点あった。

環境の多様化

 家族を扱った作品も多い。父母や兄弟姉妹、祖父母、親戚…。とくに、子供たちはみんな母親が大好きだ。生活描写のあらゆる場面で登場してくる。

 さらに、同胞社会を巡る問題を自分の身近な問題ととらえている様子も伺える。とくに、一昨年千葉で起きた総聯本部放火・活動家殺害事件や各地で起きた朝鮮学校児童への暴行事件は、子供たちにとっても衝撃だったようだ。怒りと悲しみ、恐怖を綴り、事件が象徴する日本社会の理不尽さ、そして同胞コミュニティーと学校の大切さを訴える。

 日本学校に通う同胞児童と出会い触れ合う中で、朝鮮学校に通う自分と彼らの「共通点」と「違い」に目を向けた作品が数点あったのにも関心させられた。

 また毎夏行われている祖国の専門講師によるウリマル(朝鮮語)講習や、家族との祖国訪問などを通じ、祖国とのつながりを感じている子がいる。また自分の名前やチマチョゴリの制服、海外体験などを通じ、自分にとっての民族性やルーツについて考えを巡らせる作品も多々あった。

 日本人の母親、ソウルに住んでいる父親(自分自身も3歳の時に渡日)、中国から来た朝鮮族の同級生などの登場人物からは、朝鮮学校の置かれている環境の急速な多様化が伺えた。

 在日同胞としてのアイデンティティー、「自分らしさ」を育む教育が行われている朝鮮学校。それも朝鮮語で書く作品だからか、初級部生の作品にも「自分が誰なのか」という意識が自然とにじみ出る。その意識が中級部、高級部と進むにつれ、思索となり、主張となっていく。

 子供たちは在日同胞である自分自身としっかり向き合い、その目で、自分の立っている場所、そして周囲をしっかりと見つめている。(韓東賢記者)