近代朝鮮の開拓者/芸術家(5) 金復鎮(キム ポクチン)
<金復鎮>(1901〜40年)
忠清北道清原郡のもと郡守の家出身。培材高普を中退して東京美術学校彫刻科に入学。卒業後、培材高普の教師をしながら制作に励む。朝鮮プロレタリア芸術同盟に参加し検挙される。制作に精進するも病死。 |
最初の彫刻家、入選作多数/プロレタリア芸術同盟に参加
1920年、当時ソウルの秀才校、培材高普を中退し、法学を学ぼうと東京に留学した金復鎮が、どのようにしてそれまで前例のない彫刻家の道を選ぶようになったのであろうか。
それは彼も後に回想しているように、「偶然という謎」に導かれた、ある展覧会での石膏像との出会いであった。それを見た瞬間、いい知れぬ感動にとらわれ、このような新しい美の創作に参加しようと決意するのである。
これまで、何人かの先輩が東京美術学校の西洋画科に入学していた。彼はそれに続くのではなく、わが国で初めて彫刻科の道を選んだのである。
今まで彫刻のデッサンをしたこともない彼であったが、入学試験は無事合格することができた。彼の前には新しい世界が開かれていった。在東京の留学生の友人もできた。そしてまた、彼は、舞台の上での人間による芸術表現―演劇にも引かれ、友人たちと土月会というサークルを作った。毎週土曜日に練習を重ね、学校の休暇を利用して郷里への巡回演劇にも参加した。また土月美術会を創立して後進を指導した。一方、創作にも精進し、学生ながら日本の帝展に「裸像」が入選する。
1925年に東京美術学校を卒業後、わが国最初の彫刻家となり帰国した彼は、母校の培材高普の教師となる。また「鮮展」に胸像「三年前」と「裸体習作」を出品し、入選している。
注目されたのは、この年、朝鮮プロレタリア芸術同盟に参加してからである。
27年には蒼興会という美術団体を作り、活動範囲を広げようと努力もした。
そしてついに28年には、共産党弾圧の時、検挙されて西大門刑務所に収監され、33年に出獄するまで獄中生活を五年間送った。
獄中では、許される自由を最大限に利用して、家族に木材を差し入れてもらい、仏像の制作に専念したという。
出獄後、周囲の世話で、培花女高の教師の許河伯と結婚する。その後、雑誌社、印刷工場などを経営するが失敗、再び彫刻創作に戻った。
36年から「仏像習作」、「裸婦」、「一九三七年」、「少年」などを次々に出品、深まっていく病気と闘いながら、「逆境を克服するところに初めて生命の躍動があった」と創作を続けていった。
制作は学校創立者などの肖像や、寺院の仏像彫刻にも力を注いだ。中でも、忠清北道の俗離山、法住寺の五重塔の横に立つ24メートルの大仏像は、彼の最後の遺作となった。
(金哲央、朝鮮大学校講師)