わがまち・ウリトンネ(41)/東京・三河島(1)


同胞の渡日がきっかけ?/多数占める済州道出身者

 JR常磐線の始発駅、上野から2つ目の三河島駅。

 ホームに立つと、すぐに朝鮮料理店や乾物屋の看板が目に入ってくる。駅前のハンバーガーショップに入ると、「ここはどこ?」と思わず自問自答してしまった。客席のあちこちから、流ちょうな済州島方言の朝鮮語が聞こえてきたからだ。ハンバーガーを頼みながら、店員がつけているネームプレートを見ると、何と「李」さんだ。

 下町の風情が漂う商店街を歩くと、料理店はもちろん、靴店、占い場、旅行社、ビデオショップなどの朝鮮語の看板が目に飛び込んでくる。駅からそれほど遠くない所には朝鮮マーケットもある。

 三河島は、大阪の猪飼野、神戸の長田、山口の下関、神奈川の川崎などと並んで、全国的にも有名なトンネの1つだ。

 一言で三河島と言っても地域は広い。1956年からここに住む李三龍さん(76)によると、「東日暮里、西日暮里、そして荒川を含めた地域が三河島トンネ」である。とくに、同胞が多く住むのは東・西日暮里という。

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 荒川の同胞数(外国人登録者数)は6895人。外国人登録者総数は1万130人なので、約7割が同胞である。この数字には南朝鮮から来ているニューカマーも含まれる。地元の人々によると、近年、ニューカマーの数が増加傾向にあるという。

 
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 ではなぜ、三河島地域に多くの同胞が住むようになったのか。

 「人づてに聞いた話なので、真偽のほどは定かではありませんが」と断りながら、李さんは次のような話をした。

 済州道北済州郡涯月面(現在は邑)の高内里という村の出身者が、戦前、三河島に渡って来た。軍需関係の仕事に携わっていたので、日本当局に顔が利き、彼のコネで渡航証明書を得た人々が後を追ってやってきた。自然、三河島には、彼の生まれ故郷である高内里の人々が増えた。

 「故郷よりこっちにやって来た人間の方が多いんじゃないかと言われるほどでね。ひと頃は高内人同士の運動会も行われていましたよ」と李さん。こうして三河島には済州道出身者が多数住むようになった。

 祖国解放(45年8月15日)直後に行われたある実態調査でも、荒川、台東地域には約80%にのぼる済州道出身者が住んでいたとの結果が出ている。

 李さんも済州道出身者だ。南済州郡大静面(現在は邑)慕瑟浦が故郷である。48年に起きた済州道4・3蜂起に参加。翌年、日本に来た。50年代半ば、東京・上野で縫製業を営んでいた関係で、三河島に居を構えるようになった。       (文聖姫記者)