それぞれの四季/子供の名前 卞外順
最近、同級生や身近な知り合いの結婚や出産の知らせが次々と舞い込んでくるようになった。中でも個人的に興味深いのは、赤ちゃんの名付けのエピソードだ。
というのも、私の勝手な独断と偏見ながら、その名付けの傾向に、ちょっと気になる変化の兆しが現れてきている。
例えば、ずいぶん前から増えつつあることだが、朝鮮語でも日本語でも読める名前。決して悪いとは言わないが、日本語読みができるものを前提に考え、子供を日本語読みで呼ぶ友人が多いのも事実で、どうも複雑だ。
かつて一時期ブームともなった、朝鮮固有の言葉を名前にという話は、今ではほとんど聞かない。否、あってもそこに、わざわざ全く別の意味を持つ漢字を当てるという。あくまで意味にこだわって漢字を当てず、カタカナで出生届を出したというカップルは、周りの人に、「子供がかわいそう」とまで言われたそうだ。
役所で朝鮮の文字を受けつけないために仕方なく、あるいは便宜上、というのが漢字を当てる主な理由なのだそうだが、釈然としない。ずっと日本で生活していくからには、その程度の妥協はやむを得ないのだろうか…。
話は逸れるが、ある友人から出生届を出す時の注意として「父母の生年を西暦で書くと受けつけてもらえない」と聞かされたが、実際には外国人の場合は西暦でいいということでホッとしている。
些細で他愛のないことのようだが、小さなこだわりを捨てないのも大事なことだ。そんな思いをめぐらせながら、親から子への最初のプレゼントとなる名前の候補選びに悩む、今日この頃である。(事務員)