わがまち・ウリトンネ(43)/東京・三河島(3)
今も健在の朝鮮マーケット
三河島の駅から2、3分ほどの所に朝鮮マーケットがある。規模はそれほどではないが、歴史は古い。地元の人はもちろん、浅草など近辺からも客が訪れる。
1950年代にここで乾物屋を始めた申玉順さん(78)。隠居の身となった今でも、店には必ず顔を出す。
「もっぱら豚の耳やしっぽを売っていました。牛肉はもちろん、ホルモン(内臓)も高価なものでしたから」
生まれ故郷の済州道方言で、申さんはとつとつと話す。店はほとんどがバラック作りだったという。
申さんの記憶によると60年代半ば、ここで火事があり、マーケット全体が燃えてしまった。建て直す段になった時、当初のバラックから2階建てにするよう、区に要請した。
同胞らが一丸となって掛け合った結果、2階屋を建てることができたという。トンネが一番活気づいていたのもその頃だった、と当時を知る人は言う。
共和国建国10周年の大会が体育館で行われた時など、トンネの一角だけでも100人ほどの同胞が参加した。荒川全体では10数台のバスを連ねて行ったという。昼食用に用意したパンが足りなくなってしまったほどだ。
しかし、その頃はほとんどの同胞が貧しく、日本での生活に見切りをつけて多くが帰国した。
当時、「風船アパート」と呼ばれた場所がある。風船業に携わっていた同胞たちが、別に住居を借りることもできないので、工場に仕切りを立てて住んでいた。10数軒あったそうだが、そのほとんどが帰国したという。
◇ ◇
三河島駅から徒歩15分ほどの所に東京朝鮮第1初中級学校がある。数ある朝鮮学校の中でもその歴史は古く、「日本で最初の朝鮮人学校」と荒川区史に書かれているほどだ。
創立は45年12月15日、「国語講習所」として出発した。生徒18人、教員1人だったが、全盛期には1500人ほどが通っていた。
当時、「朝鮮学校ボロ学校」という言葉があった。47年に建てられた木造の校舎は老朽化していた。そこで、50年代後半に鉄筋の校舎に改築する話が持ち上がる。
「みんな決して余裕があったわけではありません。しかし、子供たちのために一肌脱ごうと、多くの同胞が身銭を切りました」
当時、ボランティアで建設に携わった同胞たちは口をそろえる。
こうして59年、3階建ての鉄筋校舎が完成。61年には4階建ての校舎も併設された。68年には幼稚班舎も竣工。92年に改築され、現在に至っている。
(この項おわり=文聖姫記者)