投  稿

芥川賞受賞作・「蔭の棲みか」を読んで/權載玉


 第122回芥川賞に選ばれた玄月(げんげつ、本名=玄峰豪)氏の受賞作・「蔭(かげ)の棲(す)みか」を読んだ。在日1世代の1読者として感じたことをありのままに述べたい。

在日1世の原体験を消すことは出来ない

 この作品は、在日同胞が多く住む大阪の下町が舞台になっている。そこはどこだろうと想像しながら読んだが、虚構の集落だとは知らなかった。そのことを知ったのは、読み進むうちに2日ほど経って、作品が作者の実体験をもとに書かれたものだと、思うようになってからだ。

 創作する過程で、決して先を急がず、立ち止まってじっくり考え込みながら書き進めたと作者はいうが、確かによく吟味され練られている感がした。

 自分の感情を極力抑えながら一見、地味な表現ともとれる描写が効を奏している。作者の言うように、自分を強く押し出すことを避けようという意識と、自分を消したい、抑えたい、自制させたいという思いを、方法論的、手法的に描写している。


 集落の様々な人物像が描かれている作品の中で、最も関心を持ったのは、1世の同胞高齢者で戦争被害者でもあり、68年間も集落に暮らしてきた主人公・ソバンの悲哀に満ちた半生である。

 故郷を追われ旧日本軍人として戦時中に米軍機の機銃掃射で右手首を失い、息子は何者かに撲殺され、妻も仕事中に裁断機に腕を付け根から切り落とされ出血死する。

 作品の中で、在日同胞の医師・高本が、ソバンに自分の心情を吐露する場面がある。

 「わしらの世代以降ではつけられんこの国へのけじめを、あんたらにつけてもらいたいんや。わしらは、いやわしは、あまりに無力や。そこそこの金と社会的地位を維持するだけで満足して、心もからだも弛緩しきっとる」

 ところがソバンは、「高本の心中は痛いほどよくわかる。しかしもう気持ちが擦り寄らない。問題意識がちがいすぎるのだ」と、日本国に補償を求めるつもりのないことを示唆する。

 作者は、2人のそれまでの来し方を振り返れば、こうなることは必然だという。

 確かにそうかも知れない。ソバンは高本の言うけじめもつけず補償さえも放棄してしまう。ソバンは、これまで一発かまそうと腕を振り上げては下ろし、下ろしてはまた上げるという、まことに優柔不断というか、いい加減な人物として描かれている。

 ソバンの哀しみや憤りが、これではかえって封じ込められてしまい、胸に強く伝わってこないのではないか。そんな疑問をどうしても拭いきれなかった。


 第1世代の私たちには「原体験としての被害意識や在日としての被差別意識」があり、「恨(ハン)」がある。だが、作品の中にはそれが描かれていない。

 在日同胞にも世代の違いがあり、いまや3、4世の時代へと世代は交替している。

 時の流れとともに、過去のことが風化され忘れ去られようとしている。現在を生き未来にはばたく若者たちに過去の事をしっかり伝えておかなければならないのでは。この国が犯した罪を、過去にわが国に何をし、何をしていないのかを知ることは、今もって重要なことだ。

 作品を何度も読み返しながら、ソバンと高本を最後には対立させて欲しいと思った。残念と言うほか無い。

 ともあれ、新しい感性で、在日同胞社会をテーマにした作品を書き上げ、賞をものにした作者の今後の活躍を期待したい。(クォン・ジェオ、東京在住、66歳)

◆作品のあらすじ◆

 作品は、大阪市東部の在日同胞が多く住む町を舞台に、ソバン爺の視点から、周囲の人々の群像を通して変容する「在日」社会を描いている。

 主人公・ソバンは故郷の済州島から渡日し、旧日本軍人に敗戦の年の春、呉港近くの漁港で米軍機の機銃掃射を受け右手首を失う。そのためいつも右手を庇いサックを嵌めている。

 ソバンの息子・光一は、学生運動に近づき撲殺され、妻も裁断機に腕を付け根から切り落とされ出血死する。光一の同級生・高本は、苦労して公立大の医学部を卒業し、地元で診療所を開業する在日同胞医師。

 その他、集落を牛耳るボスの永山、集落で生まれた最後の世代・金村、頼母子の金を持ち逃げしようとして袋叩きにあうスッチャ、朝鮮族の中国人寮長、出稼ぎ「韓国人」、独居老人を訪問するボランティストで、ソバンの面倒を看る耳鼻科開業医の妻・佐伯夫人など、多彩な登場人物にスポットをあてながらストーリーは展開される。